「おお、蓼科じゃないか。こんなところで何をしているんだ?」
衣笠が飄々とした表情で立っていたのだ。8月の部屋で横たわっていた精気のない死体ではない、生きた衣笠がいま目の前にいる、
「だって、お前、あの女に埋められそうになって・・・。」
恐怖と涙でゆがんでいた蓼科の表情が、安堵の表情に変わる。ふらふらと衣笠に歩み寄ると、衣笠は今にも倒れそうな蓼科を受け止める。
「お前を探しに来たんだよ・・・。そしたら、あの店で・・・、あそこに人なんていなかった。猫の化け物に花の肥やしにされるところだった・・・。」
縋りついた衣笠の体から不思議な匂いが香った。何の匂いだろうか、花の匂いである事は確かだが、何だか思考を奪うような、安らぐような、得体の知れない香りがする。段々と意識が遠のいていく。
「何を言っているんだ、夢でもみたんだろう。さあ戻ろう、繊月堂へ」
衣笠の肩越しに見える、下界のぽつぽつとした街燈が蓼科の瞳の中で揺らぐ。その景色の中に真っ白な何かが見えた。
白い猫だ。猫が蓼科を一瞥し、背を向けて走っていく。
その瞬間何処からか風鈴の音が鳴った。
ああ、風鈴を仕舞わなくては・・・。
蓼科は衣笠を突き飛ばし、夜の闇の中に向かって走り出した。