けたたましい電話の呼び出し音が、プロレタリアートな哲学に浸っていた暮来を現実に引き戻した。暫く無視していたのだが、30コールの呼び出しを5回も続けられると、流石に出てやらねばならないような気がしてくる。暮来カナブンは部屋に飛んで戻ると、しつこく鳴り続ける受話器を取った。
「もしもし。暮来ですが。今はもうカナブンですが。」
「暮来君……。」
ケラケラケラと陽気な暮来の笑い声に割って入ったのは、恐ろしい程に憔悴した声だった。シナシナに萎れ切ってはいるが、それがお局の声だということは、何とか判別できた。
「どうしたんですか?そんなに弱った声を出して。らしくないですよ。」
暫く暮来の空虚な笑い声だけが響く。
「お願いよ、暮来君。どうか人間に戻って。会社に来て。本当に、本当に、もう誰もいないのよ。」
暮来は少し良心が痛んだが、それでも勝ち誇った口調にならざるを得なかった。
「ケラケラケラ。課長とグルになって僕たちヒラ社員を虐めてきたバチが当たったんですよ。どうぞ、課長と二人で頑張って下さい。」
そう吐き捨てると、暮来は受話器を置こうとした。
「待って暮来君!違うのよ!」
「ケラケラ、何が違うんですか?まさか、『あれは虐めなんかじゃなく、社員の成長を祈って云々』とか、そんな常套句を言うんじゃないでしょうね。」
再度、暫時、沈黙。
「……違うの。あれから結局、営業課には課長以外誰も居なくなって、課長一人で全部の仕事を抱える羽目になったのよ。だけど一人で全部の仕事が出来るわけないでしょ。その上部長や役員や社長まで毎日やってきては彼に罵声を浴びせて。そしてとうとう、ある日を境に出勤しなくなったのよ。私、心配して家に見に行ったら……彼……彼……ヤマトゴキブリに……。」
お局はとうとう泣き出してしまった。暮来は少しだけ課長に同情したが、今さらどうなるものでも無い。
「まあ、事情はわかりますけど。僕を頼られても困ります。何てったって僕も虫なんですから。」
受話器の向こうからは、ずっと啜り泣く声が聞こえていた。
時を同じくして、ヤマトゴキブリになった課長は、ジメジメとした溝の中に身を潜めていた。虫になって一週間。食料はいくらでもあるし、自分勝手な上層部どもにネチネチ言われることもない。虫になった暮来たちの気持ちが、今の彼には痛いほど理解できた。