小説

『BUGS CAPITALISM』澤ノブワレ(『変身』フランツ・カフカ)

 痛みは無かった。虫だから。だが、急激に遠ざかる男女の声や周囲の蝉音に、彼はそれが致命傷であることを悟った。

 燦燦と照りつける日差しを浴びながら、暮来はアパートの前のクヌギにしがみつき、樹液を啜っていた。最近、彼と同じくらい大きな虫が、急激に増えてきたようだ。暮来はそのクヌギの中では古参だから難なく樹液に在り付けていたが、新参の中には樹液不足によって他の餌場から追いやられたのだという者も多かった。そんな話を聞くたび、ゾワゾワと、暮来の中に残った人間の本能が何か嫌なものを感じ取っていた。
 そしてもう一つ、嫌な噂を耳に挟むようになった。世間で自分たちの扱いが、「虫化した人間」ではなく、「かつて人間だった虫」に変わっているという。つまり社会全体が、彼らを人ではなく、虫として扱い始めたのである。虫化した労働者に対する扱いは当初から賛否両論分かれていたが、人道的に「元ヒト」を駆除するわけにもいかないということで、一先ずは保護(つまり放置である)の形が取られていた。だが「加速度的に増え続ける巨大な虫たちが市民に甚大な恐怖を与えるのは遺憾である」として、害虫の姿をした虫化人間であれば駆除しても良いという法案が通ったというのだ。
「まあ、噂ですよ。僕たちは元は人間なんだ。僕たちを駆除するってことは、人を殺すということですからね。」
 かつてスマートフォンアプリの会社でプログラマーをしていたというカミキリムシは、噂話の最後にこう付け加えた。
――殺人、駆除、害虫、樹液不足……。
 気ままに樹液を啜り続ける暮来の頭に、ふとそういった言葉が過ぎるようになっていた。
――ええい、何をマイナス思考になってるんだ。俺たちは虫になって自由を手に入れた。いずれはきっと、人間がみんなこの生活の良さに気がついて、社会全体の構造が変わるに違いないんだ。だってここは天国じゃないか。争いも無い。ストレスも無い。明日への不安も無い。みんながみんな協力して、楽しく生きていければそれで……
 頭にまとわり付く考えを、暮来が必死になって振り払おうとしていたその時だった。アパートのコンクリート塀の外から、何かが打ち付けられる音と、何かが潰れる音と、耳障りな罵声と……。そして微かに聞こえた気がした。自分の名を呼ぶうめき声。それは聞き覚えのある声だったが、かつて人間としてその声を耳にしていたときとは違い、不快感も萎縮も無かった。樹液に群がる虫たちが一気に離散する。四方八方へと飛び去っていく。カナブンだけがまっすぐに、音のした方向へと飛んでいった。
 そこには冷たいコンクリートブロックで無残に腹を潰された一匹の虫がいた。カナブンはゆっくりと、そちらの方へ近づいていく。
「課長……。」
 カナブンは込み上げて来るものを必死に抑えながら、小さく呟いた。

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