彼は部屋を出ると、左前脚で固定電話の受話器を取り、右前脚で会社の番号を押した。
「ハイ、黒黒商事でゴザァイます。」
耳に突き刺さる甲高い声。事務のお局年増婆である。
「あ、すいません。暮来ですが。」
「クレキ?暮来って営業の暮来君?アンタ何やってるの!フザケんじゃないわよ。何回電話したと思ってんのよ。もう課長カンカンよ!」
「すいません。実は僕、虫になりまして。なのでもう会社には行けません。」
お局が絶句して固まったのが、電話越しに分かる。しばらく気まずい間が空いて、
「ちょっと待って。課長に代わるから。」
と言った声は、酷く震えていた。
それから暮来は5分ほど待たされたのだが、その間お局が保留にし忘れた受話器からは、泣き叫ぶ彼女の悲鳴と課長の怒声が漏れ聞こえていた。
「オンドルルアァァ!暮来ィ!テメェ何フカしてんだよ。休む口実に適当なこと吐かしてんじゃねーぞゴルルァァ!今すぐ出て来い。今すぐ出て来てテメェが迷惑掛けた関係各所様全員に土下座して回れよオォォこのクソ虫野郎!」
突然受話器を掴むなり捲くし立ててきた課長だったが、もはや暮来には恐怖も萎縮も無かった。彼はいかにもウンザリという風に溜息をつくと、
「そんなこと言われたって、虫になったのは事実ですし。土下座して回れと言われても、もともと四つん這い……もとい、六つん這いですから、土下座してるかどうかも分かりませんよ。ていうか、虫だから仕事も出来ないですし。」
ワザとゆっくりした口調で説明し、ケラケラと笑った。
「テメェ!ぶっ殺してやるからな!泣き喚いて土下座して、散々命乞いさせてから目ン玉ブッコ抜いてキャーキャー言わせてやるからな!」
課長はそう言うと力一杯に受話器を叩きつけた。暮来は静かに受話器を置くと、部屋に戻る。
――さて、飛ぶ練習、飛ぶ練習っと。
恐ろしい勢いで薄っぺらい玄関のドアが蹴り開けられ、課長が借金取りの如く何やら捲し立て、土足で家に上がり込んできたのは、ちょうどもう少しで暮来の羽が空気を掴み、その巨大な甲殻を浮かせんとしているところだった。