小説

『光にゆく羽音』柿沼雅美 (『冬の蠅』梶井基次郎)

 まわりに大きな変化さえなければ、なんとか我慢してやり過ごすことができる。毎日決めていることを自分のなかで出来れば焦りだすことも少なくなった。でも僕は、人が言うことをその通りにはできないままで、頭では分かっているのにできない理由が分からなくて、でも、できないことを見せないように今日に至った。

 蠅は電気のまわりを何週かして、勉強机の上に降り立った。
 僕は頬杖をついて、そのまま机の上に左腕を枕のようにして蠅を見た。蠅は僕の目の前で動きを止め、首を傾げた。
 どうしたら僕はキミみたいになれるんだと思う? そう聞くと、羽をブィンと鳴らした。
 どうしたら僕はキミみたいになれるんだろう。何でも好き嫌いなく食べられて、寒くても暑くてもなんてことのないように飛べてさ、誰よりも光が好きで、ちゃんと明るいところに向かっていくことができる。
 蠅は僕の話が退屈なのか、両手で顔をわしわしと撫でた。口元に手の先を持っていっているが、舌があるのかは分からない。
 人差し指を蠅に近づけた。蠅は逃げることなく、僕の爪の上に乗って、僕を見た。目だけが褐色に染まっていてまっすぐな視線だ。羽だけが半透明に、蛍光灯の色を吸い込んでいる。
 僕は蠅をゆっくりとつまみ、またカップの中に入れた。じじじじじ、とまたカップの内側に蠅がぶつかる音がして、分かった。
 僕もこの蠅と同じなんだ。
 どこかで誰かが僕を、この窮屈な世界に入れている。だからきっと、僕だってこの世界から一時だけでも解放される瞬間が来るはずなのだ。
 そう答えがでると、やっと、なりたいものになれる気がしてきた。そうか、そうだったんだ。
 僕は急いで部屋を出て、階段を駆け下りた。母親に、僕はこの世界から出て行くんだ、と言った。母親はびっくりした顔をしながらも、いつもの戯言だと解釈したのか、はい、いってらっしゃい気をつけて30分で帰ってきなさい、と言った。母親が見ているテレビでは、カラフルな衣装を着た噛んじゃいそうな名前の女の子が、ポップコーンみたいな響きの歌を歌っている。
 家を出た僕は、僕は蠅なんです、と叫んだ。僕は蠅になったんです、僕はやっと蠅になれたんです、と叫びながら小走りをした。いつもの道が自分だけの花道になっているんだと感じた。
 僕はそのまま、道行く人々全員にありがとうと握手をしたいような気持ちで、きらめきだした星をぐるりと踊る様に見ながらスキップをした。
 街灯や、車のヘッドライトや、家々の窓の明かりや、コンビニや、この世界の全ての明るさに、僕ははじめて惹き付けられた。

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