小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

 彼は私の部下ですから、最初の内は私が打ち合わせを行うところに同席させ、取引の依頼という仕事の内容がどのようなものか見せることにしました。もちろん、いつも取引が上手くいくなんてことはありませんから、もし上手くいかなかったときにはどんな対応をするのか、次にどのようにつなげていくのかを学ばせる目的もありました。しかし、彼と一緒に出向いた先では、いつもは高圧的な人がニコニコとしていたり、初めて取引を依頼した会社でも二つ返事で良い回答をもらえたりと、本当に奇蹟的に失敗することがなかったのです。初めは自分の営業の腕が上がったのかとも考えましたが、どちらかというとロジックに頼り、一定の流れをもとにしている私の営業術が、何のシステムも変えることなくいきなり神がかり的に成功率を上げるなんてことは考えにくいことで、そう考えると、変わった条件は、彼が同席しているということだけでした。
 彼を始めて見た相手方の人は、皆当然の如く驚き、中には馬鹿正直に「えーと、この人は林檎だよね?」
 と聞いてくる人もいました。そんなとき私は、はい、そうですとしか答えることができませんでしたが、彼はそんな無礼を一向に気にすることなく、あのふにふにした腕を差し出し、相手方の人と握手をするのです。最初の内は彼に気をとられていた相手方の人も打ち合わせが始まれば、彼を特に意識することはなくなり、普通の人間と打ち合わせをするように内容に不備があったり、向こうにとって不都合な内容や納得できない内容があったりすると、容赦のないプレッシャーや言葉を浴びせてきます。といっても、実際にしゃべっているのは私なので、私に対してです。しかし、そんなこちらにとって部の悪い状況になると、ふと、甘い林檎の匂いが漂ってくるのです。その林檎の匂いを嗅ぐと私は不安や焦りがさっぱりと消え、なんだかリラックスした気持ちになりました。相手方にも同じ匂いが届いているのかはわかりませんが、さっきまで鬼のような形相をしていた人が、仏のような優しい顔になっているのです。そして、さっきまでの状況が嘘のように、スムーズに取引が成立するのです。おそらく彼が何かしてくれているのだろうと思って、彼の様子をうかがうと、彼は顔色を変えることはありませんでしたが、頭から生えた茎の部分がぴょこぴょこと動いているのを私は見逃しませんでした。
 私たちの会社は、どれだけ契約をとって来られたかによって評価が決まる仕組みでしたから、私と彼の評価は上々でした。もちろん契約が取れるのは私の実力ではなく彼のおかげだということはわかっていましたので、打ち合わせが終わり相手方の会社からでると、私は彼に握手を求めるようにしていました。そんなとき、彼はぺこぺこと頭を下げながら、あのふにふにとした手で私と握手をするのでした。

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