小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

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 私が普通の大学を卒業し、普通の企業に就職して、もう八年になります。八年も経てば、電話対応みたいな事務作業から取引相手を見つけてくる営業まで大方の仕事を一人でこなせるようになり、書類の紛失から事務所の鍵の閉め忘れまで誰もが経験するであろう失敗を一通り経験し、そんなに社員数の多くないこの会社の中で、私は平社員から課長に昇進し、中堅社員として扱われるようになりました。そして、ほどなくして私の下にも部下がつくことになりました。三十歳にもなれば、世の中では部下の一人でも持つことは当たり前のことであり、むしろ周りに比べると少し遅いようにも思えますが、私は自分の部下に会ったその瞬間から、そんなことがどうでもよく思えてしまいました。私の部下は林檎人間だったのであります。



 最初、彼を部下として紹介されたときには、何か悪い冗談かと思いました。
「今日から君の部下になる子だ。しっかりと面倒をみてあげなさい。」
 それだけ伝えると、部長はさっさとどこかへ行ってしまいました。林檎人間と二人取り残された私は、どうしたものかさっぱりわからず、とりあえず握手をしようと手を差し出すと、林檎人間は頭(おそらく)をぺこりと下げながら、おずおずと私の手を取りました。
 林檎人間とは、林檎が好きな人間のことではありません。本当に見た目はほぼ林檎なのです。私達が「林檎」と聞いてパッと思い浮かべる、真っ赤で、食べるとシャリシャリとして、甘かったり、すっぱかったりする、あの林檎なのです。しかし、ただの林檎ではなく、私達人間と同様にしっかりとした二本の腕と、二本の脚がついています。ですから、私は、彼のことを「林檎」ではなく、「林檎人間」と呼ぶのであります。
 彼と仕事をするうちに気付いたことがいくつかあります。
 まず、彼にはどうやら名前がないということです。人間にとって名前がないなんてことはありえないことですが、考えてみると、人間一人一人に名前があるのは、それぞれの個体を識別するためです。しかし、スーパーに並んでいる林檎一つ一つに名前をつけ、見分けている人間などいないことでしょう。私たちにとって「林檎」は皆等しく「林檎」なのであります。
 そう考えると、彼に名前がないことも納得がいきますが、人間社会で仕事をする以上、名前がないと困ることもたくさんあります。例えば書類にサインをする時です。そういうとき、彼はどうするのかと様子を伺っていると、彼は朱肉と判子を取り出し、名前を記入する欄に丁寧に林檎のスタンプを押していました。

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