小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

 当然、彼を呼ぶにも名前がありませんから、どう呼んだものか悩んだりもしました。他の社員たちは、彼のことを「林檎」と呼んだり、もう少し仲の良い人間だと、「りんちゃん」と呼んだりしました。しかし、私は彼を「林檎」と呼ぶことが、誰かのことを「人間」と呼ぶようで、なんだか失礼なのではないかと思い、つい「君」とか「彼」などと呼ぶことにしてしまったのです。
 また、どうやら彼は人間とは違った常識をもっているようです。彼は服を着ることがありません。私たちは人前では服を着て、人前で裸になることを恥ずかしく思いますが、彼はそうではありません。確かに彼の身体を覆っている真っ赤な皮を服と見立てれば、裸ではないとも考えられますが、おそらく彼の皮は生まれついてのものでしょうし、そうなると彼は一生服を脱げないことになります。また、彼には私たちと同様に二本の腕と二本の脚をもっていますが、先端に指はなく、ひどく触り心地の良いふにふにとしたぬいぐるみのようなもので、どういう原理だかわかりませんが、脚の裏に汚れがつくことはないので、靴を履きません。ですから、人間から見れば、彼は全裸なのです。
 しかし、羞恥心がないわけではないようです。彼は毎日欠かすことなく自分の身体をワックスでピカピカに磨いてきます。彼の大きな身体を余すことなく磨き上げるためには、一時間はかかるのではないでしょうか。雨が降っているときには、全身にビニールを纏い、更に彼の身体がすっぽりと覆われるような大きな傘を差して出勤してきます。一度、雨の日に出勤してきた彼に、おそらく背中に当たるであろう部分のワックスが雨水で剥げ、他の部分との違いがはっきりしていることを指摘すると、彼は、ただでさえ赤い顔を真っ赤にさせながら、トイレへと走っていきました。帰ってきた彼の背中をみると、他の部分と同様にピカピカに磨かれていましたから、もしかすると、彼にとって磨かれていない身体を見られることは、とても恥ずかしいことなのかもしれません。



 社員としての彼は頗る優秀でした。毎日遅刻することなく出勤し、誰に言われるでもなく事務所の掃除を行い、適度な頃合にお茶を持ってきてくれました。仕事もテキパキと要領良くこなし、どんどんと仕事を覚えていきました。
 何よりも彼が実力を発揮したのは、他の会社に契約を結んでもらえるよう依頼する営業活動のときでした。彼は口がありませんから、言葉も喋れません。ですから、普通に考えれば、相手方との取引の打ち合わせをしている場に同席しても邪魔になるだけです。しかし、彼が同席した打ち合わせは絶対といっていいほど上手くいくのです。

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