小説

『明日、桜を食べに』柿沼雅美(『桜の樹の下には』)

 めんどくさくなったんだね、と念を送るように茜は翔を見る。声優になりたいという夢を持って、そのためにバイトも満足にできないし家を空けることが多いしイベントにも出かけたい、それは分かっていた。だけど、それがどうねじり曲がって、蓮の父親を放棄までする気持ちになったんだろうと、考えても分からないし、聞いてもちゃんと答えは返ってこない。
「とりあえず、また連絡するから」
 留守電の折り返しもない男がいつ連絡するのよ、と小声で言った。翔はアイスココアのストローを一気に吸い、ずずずっと音を立てて席を立った。引き留めなければ、今日こそはっきりさせなければ次はいつになるか分からない、そう思いながらも、保育園のお迎えの時間が迫っていて、茜は、長くなるのも困るんだよもう、と思った。
「これからどうするの?」
 翔の背中に茜が言うと、翔は右手で首のあたりを掻きながらカフェを出て行った。
 はたから見れば、デキちゃった女が頼りない男にすがっている、そんな風に見えるのかもしれない。かわいそう、とか女子高生だったら小声で友達としゃべったりするのかもしれない。
 翔の気持ちはすごくよく分かる。やりたいことが見つかって、それが夢になって、なんとか実現させたいと思う。スクールに通ったり、オーディションを受けたり、ノルマのあるライブを開催したり。それをやっているなら、自分が大変でも応援したいと思っていた。それでも翔は、自分は裏方には向いていないから、と言って好きなことしかせず、バイトも続かず、30歳を過ぎてもなお、なにひとつ変わらないどころか退化してるんじゃないかと感じさせられた。今ひさしぶりに会った姿も、人気声優に見られるような爽やかさも意思の強さも見えず、ただ茜はがっかりした。
 数年前なら、甘やかしすぎて親も親だろ、と言い放っていたけれど、蓮がもし将来そうなったら住まわせて食べさせて優しくしてしまう自分がいるような気がして何も言えなかった。
 思わずため息が出た。ため息の行く先に置かれたテーブルの上の桜のケーキが唯一、もう春になったんだな、と教えてくれていた。口に運ぶと、2時間前から手を付けられなかった桜色のスポンジが乾燥していて、それがホイップクリームの甘さを強調させた。
 ケーキと紅茶を黙々と食べ、茜はカフェを出て、駅の向こうの保育園へ向かった。
 保育園の両門が開いていて、作りつけられているゾウやキリンやウサギが保育園の中へ行進しているように見える。毎日ここを通るたびに動物園に来たんじゃないかと思う。

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