小説

『走れ土左衛門』山口香織(『走れメロス』)

「じゃあどうすんだよ!?」
 教室の空気がはりつめた。林たちリーダー格の男子らは瞬きせず猛禽類みたいな目で杉本を睨み付け、お館様役の緑川など控えめな連中は伏し目がちに緊迫した時間をやり過ごそうとしている。このままでは一向に解決をみない。沖田は深呼吸して気持ちを固める。
「名前変えるしかないよ。蔵之介じゃなくて土左衛門。それでいくしかない」
「絶対ヤダ。蔵之介じゃなきゃやらない」
 すぐさま林の声が飛んできた。
「他にどうしろってんだ!」
 苛立ちで、沖田の声はやや凄みかかった声になっていた。再び、気まずいほど空間が緊張する。下手に声を出すと、張り巡らされた細い糸を切ってしまいそうな、そんな雰囲気。しかし、
「ゾンビにしちゃえば……」
 別段、大きな声だったわけではない。しかし、時が止まったような四角い静けさの中で、その言葉の一つ一つがくっきりと響いた。一斉にみんなの視線が集中する。セリヌンティウス、というか喜助役の森田だった。
「確か、川渡る場面あるじゃん? 雨かなんかですごい増水しちゃったってやつ。あそこで渡り切れなくて死んで、ゾンビ化して走るってことにしたらいいんじゃね?」
 割れんばかりの――今度は歓声だ。クラスに快活とした雰囲気が戻ってきた。
 かくして、沖田は『走れ水死体』という意味の脚本に、また書き直さなくてはならなくなった。

 沖田の体を、疲れと気怠さが岩のように重く沈んでいく。歩き慣れた家までの道のりすら遠い。瞬きの度に頭の中の霧が濃くなって、意識が睡魔にさらわれそうになる。なんとか機械的に歩を踏み出していると――
 背中を叩かれた。とっさに振り向くと、川瀬がいた。
「大丈夫? 相当疲れてんじゃない?」
 まあ、という自分の声が聞こえてくる。
「手伝うこと、ある?」
 歩き始めながら川瀬が聞いてきた。いや、と応えつつ、沖田も並んで歩いた。
「緑川がね、沖田と私にありがとうって」
 思いがけない言葉に、沖田は目を見張って川瀬を見た。彼女は曖昧に口角を上げる。

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