なにせ頭のてっぺんからスニーカーのつま先までずぶ濡れで、顔には長い黒髪がべったりとまとわりついている。無地のTシャツにジーパンというありふれた姿だったが、濡れて張り付いた胸の膨らみだけが、彼女が女性であることを主張していた。
怯えた表情と引け腰のままで、目の前の人物を凝視していると、彼女は腰を折って頭を下げた。
「驚かせてすみません」
上げた顔にはさらに髪の毛が張り付いて、もはや紫色の口唇くらいしか見えない。二度目の悲鳴を飲み込めたのは奇跡に近い。
「こちらを、お返ししようと思って」
と、彼女が両手を前に差し出す。
その手に握られていたのは、いつぞや失くした財布だった。
どうして今頃といぶかしむ気持ちが態度に出ていたのか、彼女はまた腰を折った。
「先月、地元で拾いまして、ちょうど近くまで伺う用事があったので直接と思ったのですが、予想外に時間がかかってしまいました。念のため中をあらためていただけると」
と、差し出される財布を思わずこわごわ受け取る。
財布は記憶にあるより随分と薄汚れていた。裏表には巨大なクリップで挟んだような線状の跡が二筋、くっきり残っている。
中のカード類は記憶にあるままだったが、どのみち失くした時点ですぐ止めたので実害は無いし、返ってきたところで意味はない。現金は小銭がいくらかと、濡れてよれよれになった福沢諭吉と野口英世がうろんな顔を向けていた。すでに無いものと思っていたので、ちょっとした臨時収入の気分だ。
「わざわざどうも」と、ぎこちなく頭を下げる。彼女もまた腰を折った。
正直に言って、不気味だった。
北海道で見つけた財布をわざわざ東京くんだりまで届けに来る意味が分からない。中身のことで揉める可能性だってある。さっさと警察まで持っていけばそれで済む話だ。
にじみ出る警戒心に、彼女は微かに俯いた。
「それじゃあ、私はこれで」
そう言って横を通り過ぎていく彼女に、
「よかったら、上がって行きませんか。だいぶ濡れているようですし」
と、思わずそんなことを言っていた。