小説

『ネバーランドへ』ノリ・ケンゾウ(『ピーターパンとウェンディ』)

 つくづく社長はピーターパンのようなことを言うと思う。空を飛べ、空を飛べと馬鹿の一つ覚えのように言う社長は、いったいどこへ向かおうとしているのか。どうしてそれだけ希望的なことばかり言っておいて、一人一人がとにかく体力気力根性で営業し、成果がでなければ問答無用で努力が足りない、この給料泥棒が、と罵声を浴びせられる、といったこの会社の悪しき風土を変えようとはしないのか。この会社で働いている者は、本当に鬱病だらけだ。上司も後輩も、部長も次長も課長もチームリーダーもグループリーダーも誰も彼も鬱病もちのように見える。このあいだ、課長が昼ご飯を外で食べると行って事務所を出て行ったのに、何も食べずに帰ってきてデスクに座り、「ああ、昼飯昼飯」と呟いて支店近くのコンビニに行ったときには、もう終わりだと思った。課長だけじゃない、歳の近い上司は、得意先に電話をかけ「もしもしー…」と言ったきり黙り込み、憶い出したように「あ、えっと、もう三時か…」と言って電話を切ってしまってから、私の方を少し照れたように見て、「あれ? いま俺何しようとしたんだっけ?」と聞いてきて本当に意味がわからなかった。大丈夫だろうか。この会社は、大丈夫なのだろうか。いまに社長の言葉を信じた社員が、オフィスビルの屋上から飛び立とうとする、なんてことは冗談にもならないが、そういうことが起こりうる可能性も少なくないのではないか。

 社長「なあ、空を飛んでみたくはないか。無限に広がる可能性に、この身を預けてみたいとは思わないか。世界は広いぞ。見たこともない世界が、そこには広がっている。まるでそれは冒険のようだ。君たち一人一人に、本一冊では治まりきらない冒険が待っている。なあ、空を飛んでみたいとは思わないか。きっとそれは素晴らしい。誰も体験したことのない、未開の地を、仲間達とともに切り拓いてゆくのだ。なあ、空を飛んでみたいと思わないか。何も恐れず、自分を信じて、目を瞑って飛んでみるのだ。信じれば、きっと誰もが空を飛ぶことができる。それに大人は嫌いだ。大人なんて大嫌いだ。いつまでも子供のように夢を見て、生きて行きたいと強く思う。なあ、空を飛ぼう。みんなで、何も考えず、冒険の世界に飛び込むのだ。私は本当に、大人が嫌いだ。大人たちをすべて殺してやりたいくらいに嫌いだ。さあ行こう、みんなで。ネバーランドに旅立つのだ。今ある仕事など、すべて投げうってしまえ。もう何も考えなくていいんだ。私と一緒に行こう。さあティンカーベル、皆をつれて行くよ。ネバーランドへ。みんな、ぼくを信じて。君たちは飛べるさ。もう無理をして大人になる必要はないんだ。ぼくと行くよ。空を飛ぼう。冒険の世界へ、さあ行こう!」

 つくづく社長はピーターパンのようなことを言うと思う。と思っていたら、本当に社長がピーターパンだったのには驚いた。大人は嫌いだ、大人になりたくない、と五十を過ぎた社長が叫ぶ姿は奇態だったが、それでもいつのまにか現れたティンカーベルの持つ魔法の杖から、発せられた光に包まれた社員たちの体は徐々に浮かび上がり、空に近づいてゆく。その先頭にいるのが、我が社の社長だ。身につけていたスーツは緑色に変わり、つんと尖った帽子を被っている。社長はピーターパンだった。それには本当に驚いた。他の社員達も驚いているのだろうか。けれども、皆が皆、社長とティンカーベルについていき、空をネバーランド目指して飛んで行く。スーツを来た大勢の男や女が、ネバーランドに向かって、手を広げ、風を全身に浴び、ひたすら飛んで行く。はたしてネバーランドでは、どんな冒険が待っているだろう。私はそれが楽しみで、たまらない。もうすぐ、島が見える。あれが、ネバーランドか。とても大きい島だ。

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