「彼女は、どうして俺のことを忘れてしまったんだろう」
俺がぽつり呟くと、『あおい』はきょとんとした顔で、「知り合いだったの?」と聞いてきた。
「知り合いもなにも、俺の彼女だよ。俺の彼女のー」
言いかけて俺は、彼女の名前が思い出せないことに動揺した。毎日のように俺の心の中にいた、ついさっきまで目の前にいた彼女の名前が、なかなかどうして思い出せない。まるで、そんな彼女など初めからいなかったかのように。
そして、思い出そうとすればするほど記憶は薄れ、彼女の顔も、声も、彼女との思い出すらも、俺は思い出せなくなってしまった。そのことに愕然とし、俺は言葉を失った。
そんな俺を見て、『あおい』は言った。
「忘れることは悪いことじゃない。何かを忘れると、その隙間に、新しい何かが入ってくる。一郎さんにもきっと」
「どうして、俺の名前をー」
「前にも会ったことがあるから。あなたがうんと小さい頃に」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にある記憶が蘇った。
幼い頃飼っていた猫の姿だ。黒い猫だった。けれどその猫は、俺が三歳の時に突然姿を消して―。
『あおい』に目を戻すと、『あおい』の頭に、猫耳が現れていた。
「君は……」
俺の言葉を遮るように、『あおい』が言った。
「一郎さん、私と一緒に、もっと上(かみ)のほうへ行ってみない?」
俺はその言葉に頷きかけたが、首を横に振った。
「俺は、戻らなくちゃ」
「そう」
『あおい』は残念そうな顔をして、もう一度何かを言おうとしたが、諦めたように微笑んだ。
そこで突然、俺は強烈な眠気に襲われた。瞼を開けていることができず、体にも力が入らなくなった。
遠くの方で、微かに猫の鳴き声がした。地下水路で聞いたのと同じ声だった。
俺はなんとか瞼を開け、目を凝らした。しかし、同じボートに乗っていたはずの『あおい』は、もういなかった。
俺は、今にも閉じようとする瞼を必死で開けて、辺りを見回した。
すると、霧の向こうに、池の上を歩く猫のシルエットが見えた。
「『あおい』……」