小説

『ブルーレター』吉原れい(『どんぐりと山猫』)

 これは一体何なんだ。
 俺は身震いした。鳥肌が立っていた。ここは、こんなに寒かっただろうか。

 俺は意を決して、彼女に問いかけた。
「今までどこに行ってたんだ?」
 彼女はようやく俺を見た。しかし彼女は、先ほどと同じ微笑みを浮かべたまま、小首を傾げるだけ。
「覚えて、いないのか? 俺のこと」
 そんな俺の問いかけにも、彼女は首を傾げ続けている。俺が誰なのか、本当にわからないようだった。
 しかしそんなはずはない。確かに短い間だったが、同じ店で働き、同じ屋根の下で幾度も夜を共にした。そのことを、その恋人を、彼女は完全に忘れてしまったというのだろうか。
 俺が絶望に打ちひしがれていると、『あおい』が彼女に声をかけた。
「それではお話を聞きましょうか」
 彼女は「はい」と答え、言葉をひとつひとつ選ぶように、懐かしい声で、あの日のことを語り始めた。

「彼と知り合ったのは、二年前のことです。ここ数年で一番の猛暑日と言われた日でした。駅にも、電車にも、道端にも、ありとあらゆるものの死骸が転がっていました。それくらいの暑さだったんです。暑さは生き物を殺しますから。私はどう抗っても人間でしたから、暑さ凌ぎにアイスクリーム屋へ行ったんです。窓ガラスに、アルバイト募集の貼紙が貼ってありました。ここにいれば、私は死ぬことはない。そう思って、面接を受けました。すると、彼が隣にいました」
 彼女はそう言って、目の前のマネキン人形を一瞥した。
 なぜ、マネキン人形を見るんだ?
 俺はきょとんとなった。
 彼女が今語ろうとしているのは、俺との出来事ではないのか?
 彼女は、俺の彼女ではなかったのか?
 俺はますます混乱する頭で、けれど口を挟むこともできずに、彼女の言葉を待った。

「私たちは、同じ時期にバイトに入り、自然と仲良くなりました。歳は四つ違います。けれど、そんなことは気になりませんでした。私も彼も、お互いがお互いに惹かれあっていました。一目見たその時から、まるで隣になることが決められたパズルのように、私たちはなるべくして一緒になったのです。とても自然なことでした」

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