「でも、あなたならきっと来てくれると思った」
『あおい』はそう言って、口元にエクボを浮かべて微笑んだ。
「それで、頼みたいことってー」
俺が話を切り出すと、『あおい』は笑顔のまま、霧の向こうを見つめ、「まずはボートを漕いでくれる? 上(かみ)の方へ行きたいの」と言った。
「上(かみ)の方?」
「あなたの思う方向よ」
『あおい』に言われるがまま、俺は俺の思う方向へボートを漕いだ。次第に辺りに霧が立ち込め、俺と『あおい』のボートは、真っ白な濃霧に包まれた。
「着いたわ」
『あおい』がそう告げた。
しかし、そこには霧が広がっているだけで、何も見えない。
『あおい』が霧の向こうをスッと指さした。
その方向に目を向けると、霧の中から一隻のボートが現れた。
霧のせいでよくわからないが、人が二人、乗っているようだ。ボートが近づくにつれ、その二人の姿がはっきりと見えてくる。
俺は目を疑った。そのボートに乗っていたのは、一年前に失踪した俺の彼女だった。家を出ていったあの日とまったく同じ服を着て、彼女はボートに乗っていた。そしてそんな彼女と向かい合うように、スーツ姿の男のマネキン人形が乗っていた。
俺は、理解が追いつかない頭を必死で働かせようとした。
どうして彼女がここにいるのか。どうしてマネキン人形なんかと乗っているのか。
しかし、混乱した頭では何もわからなかった。
「どうしたの?」
『あおい』が、顔色の悪い俺を心配げに見つめる。
「なんで彼女がここにいるんですか?」
そう聞き返した俺を見て、『あおい』は小さく笑って答えた。
「カップルがボートに乗ることに、理由なんてないわ」
「カップルってー」
俺は、ボートに乗っている彼女とマネキン人形に視線を戻した。彼女とマネキン人形は、先ほどから固まっているかのように、微妙な微笑みを浮かべたまま、じっと互いを見つめている。