俺の声に、猫が振り向いた。
でも、もうそれ以上目を開けていることはできなかった。
俺はボートにことりと横たわった。
気付くと俺は、元の喫茶店にいた。両腕に伏せていた顔を上げると、窓の外が暗かった。対面にあるカフェを眺めようとして、俺は固まった。
カフェがない。そこにあったはずのカフェが跡形もないのだ。向かいの建物は、ただの空きスペースだった。俺は信じられず、喫茶店を飛び出した。
しかし、通りへ出てみても、その事実は変わらなかった。
空きスペースのウィンドウには、出店企業募集の張り紙が貼られていた。
俺は隣の時計屋の主人に、カフェのことを尋ねてみた。
主人は怪訝な顔で俺を一瞥し、「ここは三年前からずっと空いてるよ」と無愛想に答えた。
俺は、認めたくない気持ちで、もう一度二階を見上げたが、窓ガラスの向こうには、やっぱり何もなかった。
もしもあの時、『あおい』の誘いに乗っていたら、俺は今頃―。
ふとそんな考えが浮かんだが、馬鹿馬鹿しくなって、考えるのをやめた。そしてその瞬間、『あおい』の顔がまるで思い出せなくなった。俺は、ふっと笑った。
そうだ、忘れればいい。忘れることで、俺は新しい何かを手に入れる。
がらんどうの窓から目を離し、俺はその場を立ち去った。
足はもう痛くなかった。