小説

『忘れえぬ訪問者』登石ゆのみ(『忘れえぬ人々』)

『最後の、わたしの忘れ得ぬ人々は、東南アジアの山奥に住む美しい少女である。彼女は学校に通っていなかった。通っていなかったが、知性が伴った目をしていた。文字も読めず、計算もほとんどできない。しかし彼女には優しさがあった。慈悲の心といってもいい。彼女はある日、とある冒険家にパンをもらった。満面の笑顔で受け取った。彼女はひどく痩せていた。だが、一人で食べるようなことはせずに、そのパンをきれいにちぎり分けて、仲間たちに配った。少女はカメラが回っていないときも同様のことをしたという』
「すばらしい。慢性的な空腹状態で、それができる人間はそうそういない」
 心なしか、中津はそわそわとしている。温めている酒がちょうどいい温度になるのを待っているわけではないようだ。
 画面越しの声、お酒の移動、次は、人物そのものが、という期待である。
『少女は、現代において教養と呼ばれるものは一切持っていなかった。だが、人間として完成していた。わたしは、学校教育でこの少女に彼女が持っている慈悲の心以上のものを学ばせるのは、不可能ではなかろうかと感じた。これ以上の人物を育てる教育とは存在するのだろうかとも感じた』
 一区切りしたが、中津の調子のいい合いの手はなかった。
『また、教育とは何かと考えさせられた。もしかしたら、現代の競争原理に基づいた教育は、この慈悲の心を失わせる最も効率的な方法かもしれないと、つい勘ぐってしまった。彼女はその後、空腹と戦いながら、食べ物を分け与えながら、大きくなっていったという。その慈悲深い心の持ち主は、これからも村を出ることはないだろう』
 中津が感極まって、目を潤ませている。これまでの話では、まったく揺るがなかった涙腺が刺激された模様である。
「いい話だ……」
「……そういえば、キミは少年少女が頑張る話が大好きだったね」
「ああ、悪くない」
 鼻水をずずっとすすりながら、中津が応える。そのとき宿のインターホンが鳴った。
 二人がまさか、と顔を合わせて、宿の玄関まで駆け足でいく。真夜中の来客など普段は怪しんでしかるべきだったが、このときは二人とも気が緩んでいた。
 駆けつけたものの、玄関には人影はなかった。しかしガラス戸の外に何かが置かれているのが見えた。
「俺が出よう」
 宿の主人に先んじて、中津が玄関のドアを開ける。
 しかしそこには期待した人物はおらず、白い大きめのビニール袋が置かれているだけだった。中身は茶色の包装紙でくるまれている。

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