小説

『忘れえぬ訪問者』登石ゆのみ(『忘れえぬ人々』)

「なるほど。続けてくれ」
「質問、合いの手はいつでも歓迎だから、遠慮なくしてくれ。どうせ二人だけだし」
「承知した」
 その返事と共に、読み手の前へ酒杯が置かれる。読み手は軽く頭を下げ、読み進める。
『初めは、大陸の奥地の湖畔に住む老婆だった。しわが深く、ぼろきれを着ていたが、目が澄んでいた。彼女は、毎日、その巨大な湖から水をくんでいた。生活のため、水くみをしていた。水道に慣れきった我々には想像もつかないが、彼女は、それが当然だと思っているようだった。
仮設テントのようなところで暮らし、見渡す限り、広大な湖と、エメラルドグリーンの芝をたたえた丘陵地帯が広がっている。ただ一人、静寂の世界で、彼女の水くみの音だけが、その存在を気づかせてくるものだった』
『彼女は、何も考えていないようだった。話をしていても、特に愛想笑いをすることはない。必要がないのだ。ただ怒りもしない。人間というものの感情が抜け落ちているようだった。しかし日が経つにつれ、話の合間に笑顔がこぼれることがあった。それは自然な笑顔だった。純粋、無邪気な顔だった。私は画面越しに、悟りを開いた存在を見つけたような気がした。記念すべき一人目はこの人である』
 そこで読み手は一息とばかりに酒を口へ流し込む。
「その湖とは、具体的に何という湖なんだ?」
「黄河の上流だったと思うけど、パソコンもあるし、ちょっと見てみようか」
 テレビ画面の電源が入る。ここのパソコンはテレビ画面とパソコンモニターを兼用している。春丘はごろんと体を倒して腕を伸ばし、おぼつかない手つきでテレビの脇に鎮座しているパソコンを立ち上げ、画面を切り替えようとする。
 しかし、そのときテレビに映った風景を見て手が止まった。
「ここだ」
 少し声が震えていた。
「え?」
 中津は囲炉裏の赤い光りをぼんやりと眺めていたが、顔をテレビ画面の方へ向けた。
 そこには、広大な湖がいくつも連なり、太陽の光をきらびやかに反射し、どこまでも続いていた。
「これが、件の湖なのか」
「……ああ、おそらく、そうだ」
 緩やかな音楽と共に、湖が様々な角度から紹介される。

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