小説

『ミサキ・マサキ』和織(『ウィリアム・ウィルスン』『不思議の国のアリス』)

 それは夏休み前のことだった。放課後トミーたちと教室でダラダラ話をしていると、突然廊下から誰かの怒鳴る声が聞こえた。その後、同じ怒鳴り声が続いて、まだ教室に残っていた誰もが、それに耳を欹てた。するとそのうち、誰かがこう言った。「いい加減にしなよ」、と。すごくよく通る、落ちついた声だった。教室中がなんとなく周りと目を合わせてから、喧嘩をし始めた奴らと、一体誰が仲裁に入ったのかをつきとめる為に、ぞろぞろと教室を出ていった。僕も続いて出て行くと、そこに岬真咲の姿を見つけた。彼と彼がよく一緒にいるクラスメイト二人が、向かい合って立っている。掴みかかられでもしたのか、彼らの内の一人の制服が乱れていた。そしてもう一人誰かが、彼らと岬真咲の間で、こちらに背を向けて立っていた。どうやらそいつが、仲裁役のようだった。
「馬鹿みたいに怒鳴るなよ。大きな声で話せば何でも叶うと思ってるの?君はもう子供じゃないし、ここは君の家じゃないんだよ?」
 仲裁役が放った言葉、その余裕のある声と口調を耳にして、僕はあることを確信した。そしてその確信から成る不安と恐れを更に染み込ませるように、仲裁役は言葉を続ける。
「神様にでもなったつもりみたいだけどさ、神様は人のことクズなんて言わないよ」そう言って彼は岬真咲に近づく。「家に帰ったら、鏡を見てみなよ。そこに本物のクズがいるからさ。ああ、そう言うのも、クズに失礼か」
 岬真咲は、怯え混じりのひきつった顔をしていた。仲裁役の背中には、窓から入る日によって光のマントが掛けられていた。廊下に集まった生徒たち全ての意識が、彼に奪われていた。なんとも不気味な光景に、思わず声が漏れた。
「なんで・・・」
 僕がそう呟くと、彼はこちらを振り向き、僕を見、あの時と同じように笑った。そして今度は、岬真咲の向かいに立っている二人を振り返る。
「君らも、自分が間違っていないなら、言いたいことはもっとはっきり言ってやらなきゃ」
 それだけ言うと、彼は岬真咲たちに背を向けて、僕たちの横をスッと通り過ぎて行った。僕は金縛りみたいになっていた体から息を吐いて、なんとか動かした。初めは足がもつれそうになったけれど、必死に彼を追いかけた。影の様にスルスルと進んで行く彼に、げた箱でようやく追い付いて、叫ぶように呼びとめた。
「ちょっと待て!待て!」
「犬じゃないんだからさ」
 彼は困った様に笑いながら、ゆっくりとした動作で靴を履き替える。反対に僕は、彼を逃すまいとドタバタと音を立てて靴を履いた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9