小説

『それぞれの密』柿沼雅美(谷崎潤一郎『秘密』)

 おおおおう、と隙間風に震え声がでそうになりながら着替え、置いておいたブーツに足を通した。袖を通したワンピースを見下ろして、美しい、と思う。織られたタイツの糸の一本一本の重なり合うのを引っ張って見ることも愉しみであったし、袖を通したワンピースの光の当たり方で表面の色や柄が生き物のようにチカチカとして見えることも好ましく、裏地が肌にまとわりつく静電気の作用にさえ、恍惚とした。美しいものを見たり、触れたりする時は、丁度恋人の肌の色を眺めるような快感の高潮に達することが屡々であった。
 懐中電灯の向きを変え、英美の部屋から持ちだしてきた鏡を開き置いた。エマルジョンと言われている形状のファンデーションを肌に塗ると、しっとりとした感触が広がる。元々の髭の薄さも手伝って、ちょっとしたクスミやシミが目立たなくなり、フラットでありながら立体的な顔面になっていった。新宿のバーでもらった眉毛用マスカラで眉毛の存在感を消し、目元にアイラインを濃く引いた。落としやすいベージュのアイシャドウを指でまぶたに塗り、水で落とせると教わったマスカラを塗り、頬には唇にも使えるという赤いものを塗った。少し乾燥するものの、赤く染まっていく唇を見ると、意味もなく口角をあげてみたい気持ちがした。
 自分の体の血管には、自然と女のような血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなっていくようであった。家から着てきたものを鞄に詰め、倉庫を閉めた。
 外に出て、外灯の下を歩くと、いつもより白く見える手の甲に微笑みたくなってくる。通り過ぎる誰も自分に驚いたり振り返ったりすることはなく、女の中にいても溶け込める自身があった。
 いつも見慣れている街並みも、「秘密」を持っている自分の眼には、すべてが新しかった。「秘密」の帷を一枚隔てて眺めるものは、平凡な現実が、夢のように不思議な色彩を施されているように感じられた。
 既にシャッターの閉められた八百屋の前に立つと、どこかで見ていたかのようなタイミングで真唯子が現われた。夏は帽子で目元を隠し、冬はマフラーで口元を隠しているから、今の真唯子がどんな顔なのかはっきりとしない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12