小説

『月満ちる時』但野ひまわり(『竹取物語』)

 その日だけは走って家に帰りたかった。
 だが、赤ん坊を抱きながら暗い山道を歩くとなると、そうもいかない。湿った落ち葉に足を取られることもあるし、予想もしないところから枝が伸びているかもしれない。それに地面に横たわる石ころに躓けば、とんでもないことになる。落とさないように腕に神経を張りめぐらせ、足元に細心の注意を払い、起こさないように気をつけながら山を下りた。だが、家が見えてきたところで自然と足が早くなってしまった。思わず気持ちが逸ってしまったのだ。つい大きな声を出してしまった俺に、妻は少し驚いているようだった。先ほどの出来事を説明するも、口下手な俺の言っていることは、妻にはあまり伝わっていないようで、きょとんとした顔を見せるばかりだった。痺れを切らして腕の中の赤ん坊を見せると、妻は目を大きく見開いた。
 驚く妻の腕に赤ん坊を乗せてやると、妻がぼそっと「温かい……」と呟いた。それは戸惑いにも似た呟きだったが、じわじわと喜びが湧きあがっているようだった。この子を見つけた経緯を説明すると、最初は信じられない様子で聞いていたが、次第に妻の表情が変わっていくのが分かった。戸惑いと喜びが入り混じったようなその顔は、どこか恥ずかしそうで、嬉しそうだった。
 妻のこんな顔を見るのはいつ振りだろう。

     *

 戸口に立ったまま、私は夫としばらく腕の中の赤ん坊を眺めていた。
 だが、いつまでもこんな所に立っていると風邪をひかせてしまうかもしれない、そう思って振り返った時だった。自分の体に違和感を覚えた。夫の「どうしたんだ」という問いかけに答えることも出来ずに私は彼に背を向け、框をあがって腰を下ろした。痛みを感じる胸元を開いてみると、どういう訳か胸が張っている。何かが溜まっているように乳房全体が大きく膨らみ、痛みを発しているのだった。月のものは数日前に終わっている。身籠った経験もなく、ましてや、生んだこともないのに、どうして……と思っていると赤ん坊が目を覚ました。
 あっ、と思った時には、赤ん坊は今まで咥えていた指を離し、私の乳首を口に含んだ。そして安らかな顔をしながら吸い始めたのだった。
 ごくり、ごくりと赤ん坊が喉を鳴らしている。
 私の乳を赤ちゃんは飲んでいるのだった。

     *

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