小説

『月満ちる時』但野ひまわり(『竹取物語』)

 いつものように妻に見送られて家を出た。
 朝起きると、常に朝食は既に出来上がっていて、すぐに食べられるよう準備されている。そんな妻は俺に弁当を持たせてくれた後、自分は川へ洗濯をしに行き、その後畑仕事もしてくれる働き者だ。よく笑う、明るい性格だったが、ここ最近、いや数年前から塞ぎ気味になっていた。でもそれは俺たちの間に子供が出来ないせいなのかもしれない。
 一緒になったのは俺が十八で妻が十六の時だったが、四十を回った今でも子供を授かったことがない。以前医者に診てもらったが、二人に異常は認められなかった。医者には「こういうものは縁だから気長に待った方がよろしかろう」と言われ、その時はそんなものかな、と思ったが、近所で俺たちと同じような歳の夫婦が子供と戯れているのを見ると、何とも言えない焦りと妬みが湧いて来る。どうやらそれは妻も同じ気持ちのようで、その後は決まってお互い無口になってしまうのだ。どちらが悪い訳ではないが、重苦しい空気は日を追うごとに多くなり、次第に床を共にすることもなくなった。『子供』と言う言葉は、いつの間にか俺たちの間から消えていった。
 最近の妻の塞ぎようは酷かった。奥様方の会話を直接聞いた訳じゃないので詳しいことは分からないが、なんでも俺たちと同い年の夫婦の元に神様が赤ちゃんを授けてくれたというのだ。その夫婦は俺たちと同い年で、子供に恵まれないのも同じだった。きっと妻はその奥さんと子供が出来ない悲しみと辛さを共有していたに違いない。自分だけじゃない、と自分を励まし、慰めていたに違いない。だが、それがある日突然、思いもしない形で崩れてしまった。少なくなっていた笑みは完全になくなり、ただ一点をぼうっと虚ろな眼差しで見つめることが多くなった。いっそ、その悲しみをこちらにぶつけてくれた方が俺も楽になるのだが、妻はそういう性格ではなかった。口を閉ざし、殻に閉じ籠ろうとする。
 だが俺も、妻に言葉を掛けてやらなかった。いや、掛けれなかった。この歳でも授かるかも知れない、とまだ望みを持っていた妻にどんな言葉を掛けてやればいいと言うのだ。俺は、とうの昔に諦めていたというのに。
 塞ぎこむ妻をあまり見ていたくなくて、早朝から夜遅くまで芝刈りの仕事に励んだ。仕事をしている時は嫌なことも、もやもやとしたこの感情も、どこかに消えてしまうからだ。だがその日は集中し過ぎてあまり踏み入らない竹林の所まで来てしまった。空は既に暗くなっていたし、引き返そうと思ったが、林の奥で光る何かが俺の足を留まらせた。恐る恐るその光に近づいてみると、一本の竹が金色の光を放っていた。恐ろしさよりも、何かに導かれるように、気づけば鍬を竹の上部に向けて振り下ろしていた。
 光は徐々に収まっていき、辺りを再び暗がりに戻したが、俺の目には信じられないものが映っていた。あろうことか、赤ん坊がその竹の中で眠っていたのだ。上質な産着にくるまれたその子は、握り締めた小さな拳を頬に当てるようにしながら、すやすやと寝息を立てていた。桃色を薄くしたような頬は、とても柔らかそうだ。その可愛さに、しばらく赤ん坊を見つめたまま、立ち尽くしていた。

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