小説

『寝太郎、その後』伊藤円(『三年寝太郎』)

 村長が言って、
「五吉さん!」
 私が引っ張った腕を、五吉さんは振り払うのでした。

 村人は其々避難の支度を整えて、太郎さんの家に集まりました。どうやらこれから太郎さんの家を逃げられないよう板打ちした後、祈祷師の言う唯一安全な場所である、半里離れた高台に退避するそうでした。私も支度するよう言われましたが、家に戻って太郎さんの穏やかな寝顔を見て、一つの決意はいっそう強固になりました。何も持たずに玄関を出て、待ち構える村人たちに、
「私は、ここに残ります」
 と告げました。途端、五吉さんが前に出てきて、
「そりゃいけないよ! ユメさんが残る必要はねぇ!」
 と言いましたが、上流でやられたように私は五吉さんの手を振り払いました。
「私は、太郎さんの嫁です。私も道ずれです」
「ユメさん、あんたは未だ若い」
 村長が言いました。しかしそれにも私は、
「早くやっちまって!」
 と怒鳴って家に戻り、がたん! と戸を閉めました。戸の外に、声はありませんでした。ぞろ、ぞろ、足音が聞こえて、間もなく、かん、かん、と戸や窓に板を釘打つ音が鳴り響きました。でも、私は悲しくありませんでした。心底、村人を軽蔑しました。神さまが大切なことは解ります。けれども、神さまあろう方が生贄だなんて絶対に望みません。全て祈祷師のやっかみなのです。そんなこと皆解っていたはずなのです。それなのに村の危機となった途端、理性を失ってほら話に縋ってしまう。過去に防いだ過ちを実行してしまう。確かに太郎さんを疑う気持ちはあるでしょう、しかし、村を救った英雄をどうして簡単に見捨てられるでしょうか。私は、失望しました。たとえ生き残っても、もう、あんな村人と一緒には暮らせません。ならば、こうして今もなお、ごおう、ごおう、と鼾をかき続ける、穏やかな太郎さんと共に死んでしまったほうがよっぽどマシです。
 やがて音が消えて、窓に打ちつけられた板の隙間から、村人たちが山の外れの方に昇っていくのが見えました。その反対側には先の氾濫をいっぱいに湛えた水流が、まるでススキのような飛沫をあげながら激しく降下して、その先は僅かな隙間からは見えませんでした。こんな調子で一つ、二つとさらに氾濫して、村を飲み込んで……一体いつ、その時がくるのか、私はやはり不安を押えられず、慰めに卓の紫陽花を手に取って、太郎さんの横に寝転がりました。

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