小説

『オリザに灯る火』清水その字(宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』)

 先輩がゆっくりと、その言葉を読み上げる。胸の中で、何かが重い音が響いた気がした。そして、手紙は以下のように締めくくられていた。

『ありがとう、ネリ。イーハトーブの森や草原に住む、大勢の僕と君が、お父さん、お母さんと一緒に、今年の冬を暖かい食べ物と明るい薪で、楽しく暮らせますように』

「兄にとってはイーハトーブの全ての子供たちが、自分自身だったのね」
 微笑むネリさんに、先輩は手紙を丁寧に折りたたんで返した。ありがとうございます、という言葉を添えて。
 私はふと、火山局の若手たちのことを思い出した。そして局長から伝え聞いた、クーボー大博士とペンネン技師の言葉も。そして私もまた、ブドリが救った大勢の『彼自身』なのだということを。



 ネリさんの家を辞した後、我々は再び辻馬車に乗り込んだ。もう日は傾き、西の空が美しい紅色に染まっている。馬車の窓からは青々としたオリザの苗が沼ばたけに並び、水面で陽光がきらきらと弾けていた。これもグスコーブドリが守った景色である。二十年前からずっと変わらない、最も大事な作物だ。
 綺麗な沼ばたけの光景を眺めながら、英雄からの問いかけについて考えていた。本当の幸せとは何なのか。彼は自分の答えを見つけたのかもしれない。ではネリさんにとっては何だったのだろう。クーボー大博士や、ペンネン技師にとっては何だったのか。先輩の友達にとっては……。
「……そういえば、君」
 ふと、先輩が口を開いた。
「『さそりの火』を知っているかい?」
 知らない、と答えると、先輩はその短い物語を、ゆっくりと聞かせてくれた。
 昔、野原で小さな虫を食べて暮らす、一匹のさそりがいた。ある日イタチがそのさそりを見つけ、食べようとした。さそりは必死になって逃げたが、とうとう追い詰められたとき、前にあった井戸へ落ちてしまった。
 どうしても上がることができず、さそりは思った。自分は今まで多くの命を奪ってきただろう。そして今度は自分がイタチに食べられそうになって、一生懸命逃げたが、とうとうこんなになってしまった。この体を黙ってイタチへくれてやれば、イタチも一日生き延びただろうに。

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