小説

『オリザに灯る火』清水その字(宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』)

 彼女が結婚してから、ブドリは何度も遊びに来たという。その度にもっと豊かな収穫ができるように、そして恐ろしい力を持った火山のから人々を守れるように、自分の考えを語った。彼女のご亭主、そして飢饉の後に住み込みで働いていた農家にも意見を聞きに行き、それを研究に活かしたいと言っていたそうだ。
「本当に幸せな五年間だったわねぇ。兄にとってもそうだったと思う」
 ネリさんの目尻に雫が見えた。それを袖で拭い、微笑む。速記文字をびっしり書き込んだ手帳のページをめくり、私は気を引き締めた。とうとう、運命の日の話がされるのだ。
「二十年前の春は本当に怖かったわ。コブシの花も咲かない、五月にもなって十日もみぞれが降る……」
「かつての飢饉の年と、同じだったのですね」
 ゆっくりと頷き、彼女はテーブルの上に三つの封筒を出した。大分古びて黄ばんだ紙だが、『イーハトーブ火山局 グスコーブドリ』という差出人の名前ははっきりと読める。
「隠していたのではないけど、今まで他人に見せたことはなかったわ。どうぞ、読んで」
 そう言われ、早速中身を拝見した。几帳面な文字で書かれた手紙は全てネリさんへ宛てたものだった。春に来たという手紙は彼女の子が元気かと尋ねた後、その年の寒さにも触れ、クーボー大博士と一緒に対策を考えているから、元気で仕事をするようにと書かれていた。その次の手紙はもっと深刻な内容で、子供の頃に経験した、あの恐ろしい冷害がまた来ると明言し、食料を蓄え、余裕があれば他の家族へ分けてやるようにと告げている。実直な性格を表がごとく整った文字も、後半へ行くに連れて乱れが生じていた。不安で仕方ない中、妹の身を案じて筆を取ったのだと思うと、彼の辛さが胸に染み込んでくるかのようだった。
「あれからしばらくして、兄の気持ちが分かってきたの」
 ネリさんは三つ目の封筒を空けた。青くて小さな封筒で、中の手紙も小ぶりだった。だが先ほどと違い、字に一切の乱れがない。日付を見て、それが運命の日の朝に書かれたものだと分かった。
「兄は決して、自分を犠牲にしたわけではない。最後まで自分自身の幸せを求めていたと。そして私が兄の立場でも、同じことを願っただろうと」
 彼女が差し出した手紙を、先輩が受け取った。私も横から覗き、内容を素早く手帳へ書き写す。ネリさんと再会してからの五年間について、本当に楽しかったという感謝の言葉が連なっている。
 だがその後の文を見て、思わずペンを持つ手を止めた。
「……『でも、本当の幸せとは何だろう』……」

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