小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

 ミニスカートから飛び出した彼女の長い足はそのとき、部屋の奇妙な薄暗さを纏って他人の足のようだった。確かに彼が言うように、私の足はなかなかのものかもしれない。他人の足のような自分の足を眺め、彼女はこれから彼にされるであろうことを思った。しかし彼は部屋にはいなかった。連絡もなかった。
 彼女はベッドに寝転がり、アトリエの空気を吸った。思い出したのは幼い頃に読んだ童話の絵本だ。美しい声と引き換えに二本の足を手にする人魚の話。私にはそんなリスキーな恋はできないだろう。彼女は自嘲気味に笑った。そして思った。あのあと彼らはいったいどうなったのだろう、と。朝が来て人魚が溶けてしまったあと、王子は彼女が消えたことをどう考えたのだろう。いつまで彼女のことを覚えていたのだろう。そしてあの王子と王女は本当に幸せになれたのだろうか。
 白い布を取ってみる気になったのは、暇を持て余していたせいかもしれない。窓から差し込む街灯の明かりが、誘うように布を照らしていたせいかもしれない。それとも、あの童話の続きがそこに垣間見える気がしたからかもしれない。
 彼女はほとんど無意識にイーゼルに、人魚の絵に近づいた。そしてその柔らかな白い布を剥ぎ取った。
 気のせいだ、とまず彼女は考えた。そう考えることで彼女はその現実を逃避しようとした。しかしそこには『気のせい』という言葉では片付けられない種類の現実があった。
 そこにもちろん人魚はいた。記憶通りに白いブラウスを着ていた。木製の椅子に腰掛けてもいた。しかし人魚は記憶の女とは違っていた。人魚は俯いてなどいなかった。寂しそうな表情はどこにも見あたらなかった。人魚はしっかりと顔を上げ、睨むように彼女を、こちらの世界を見つめていた。
 彼女は視線から逃げるように、絵の斜め側に立った。見つめ合っていると恐怖で足が竦んでしまいそうだった。視線から外れると、人魚が本当に見つめているものがなんであるかがわかった。人魚の目線の先にはベッドがあった。彼と彼女が何度も交じり合ったベッドを、人魚は恐ろしい形相で睨んでいた。
 これは手の込んだ彼の悪戯かもしれない、彼女はそう考えた。新しく描いたこの絵を、かつて置いてあった俯いた人魚の絵とすりかえたのだ。しかしそんなことをする人だとはとても思えなかった。彼はキスこそ上手いが、基本的には静かで真面目なタイプの人間だった。だけど私達は交じり合っていただけなのだ。彼が私のことを何も知らないように、彼の内側にあるものを、私は何ひとつ知らないのだ。
 彼女は白い布を人魚の絵に掛け直した。十分ほどして彼が帰って来た。彼女は絵については一切触れず、いつものように彼にキスをした。彼はそのキスに応えるように彼女の服を脱がし、宝石でも扱うように彼女の足を愛撫した。部屋には滞りなくいつもの情事の時間が訪れた。

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