小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

 彼女はいつも彼と交わるベッドに腰掛けた。明かりはあえて点けなかった。薄暗いアトリエは少し不気味ではあったけれど、雰囲気は彼女の好みだった。
 白い布が掛かったキャンバス(なぜかいつもベッドの近くにあった)が目に入った。それは彼が描き上げた作品のひとつらしかった。どうしてその絵にだけ几帳面に布を掛けているのか、彼女はいつも不思議に思っていた。しかしわざわざ訊いてみるだけの興味はなかった。
 いつだったか、彼はその布を取って絵を見せてくれたことがあった。彼にも彼の絵にも興味がなかった彼女ではあったが、その絵には何かしら惹かれるものがあった。
 そこには白いブラウスを着た、セミロングの女が描かれていた。目鼻立ちのはっきりした美しい女だった。しかし残念なことに、下半身には醜い鱗にまみれた尾ひれが付いていた。女は人魚だった。人魚は木製の古びた椅子に腰を掛け、視線を落とし、世界の終わりのような表情で俯いていた。両手はちょうど人と魚の境目にあたる腰の位置に几帳面に重ねられていた。注意深く観ると、その薬指に指輪を填めていることがわかった。人魚は誰かを待っているのかもしれない。彼女は漠然とそう考えた。
 彼には妻がいるのではないかと疑い始めたのは、ちょうどその頃だった。彼はもちろん妻の存在を仄めかすようなことはしなかった。しかし長くこの部屋に来るにつれ、彼女は妻の存在をうっすらと感じ始めていた。冷蔵庫には誰かが作った食べ物がタッパーに入っていることがあった。日中、彼以外の誰かが丁寧に掃除をした形跡が残っていた。それはどちらかというと恋人ではなく、妻の匂いのする足跡だった。
 人魚は彼が妻を描いたものかもしれない、というのが彼女の考えだった。どうして妻であるこの人は人魚になってしまったのだろう。彼女は不思議に思ったが、やはりわざわざ訊いてみるだけの興味を持つことはできなかった。
 とはいえ、その日彼が見せてくれた人魚の絵は、彼女の心に妙に焼き付いた。その俯いた顔が恐ろしいほど寂しそうだったせいもある。そこに、彼の妻の存在を垣間見たせいもある。

 部屋にいるよ。

 簡単なメールを彼に打ってから三十分が経っていた。しかし彼からの返事はなかった。何かあったのだろうか、と彼女は次第に不安になった。彼に妻がいたとして、そのせいで面倒なことに巻き込まれるのはごめんだった。彼女は不倫をしてまで彼との関係を続けるつもりはなかった。そろそろ潮時かもしれない、と彼女はいつも彼と交わるベッドで考えていた。

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