「今私があなたに訊いてるんだよ。私は誰かって」
僕は部屋の時計に目をやった。結婚祝いに友人から贈られたMIKIMOTOの白い時計だった。時計はあと二十五分ほどで今日が終わることを告げていた。
「明日、けっこう早いんだよ」
「忘れた女は忘れたままでいいってわけね」
「ヒントかなにかもらえたら嬉しいんだけど」
女は少し考えるように間を取った。僕は眠る事を諦め、ベッドから起き上がり、暖房のスイッチを入れた。
「こないだ舞台を観に行った。あなたが本を書いていた舞台」
「こないだ?」
「1月の中旬に行われていた」
僕の公演は一月十一日から二週間行われた。小さな劇団ではあるけれど、数百人の客の顔を覚えているわけがない。
「僕に挨拶はしなかった」
「お客さんを見送るのに忙しそうだったから」
「ちょっと待って。それがヒント?僕の舞台を観たってだけ?」
「舞台は私の友達がモデルになってた」
「友達?」
「Yのこと」
その公演で僕はYという女性の名前を使った。モデルとまではいかないが、どことなく似せて書いたのは事実だ。彼女は高校からの友人だった。どこからきたのかわからない独特の雰囲気を身にまとっていて、極端に口数が少なかった。ほとんど喋らなかったと言ってもいい。けれどなぜか彼女は僕の側にいたがった。まるで僕の知らない僕の秘密を握ってでもいるように。
「死んだ人のことを書くってどんな気分がするの?」
女が言った。僕はしばらく黙っていた。慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「死んではいない。失踪はしたけれど」
「そうね。失踪はしたけれど、死んではいないかもしれないね、確かに。だけどYはあなたの舞台に出て来たみたいなイカレタ女じゃない。もっと知性的だよ。失踪はしたけれども」
「君はYの友達ってこと?僕と同じように」