小説

『シャーロットの日記』朝蔭あゆ(『浦島太郎』)

 貿易商だった彼女のパパ、つまりは私のひいおじいさまは、仕事のために遥かドーバーを越えたまま、ついに戻ることはなかった。小さなシャーロットに残されたのは、あの黒い革の手帳だけだった。
「パパがいなくなってしまったのに、この上アリスにも会えなかったら私、きっと死んでしまっていたわ」
「そんなこと言わないで、シャーロット。私は、あなたの前から黙って消えたりなんかしない」
 私はそう言って彼女を抱きしめた。小さなシャーロットは声を上げて泣いた。
「約束よ、アリス」
 彼女のか細い声が、厚く垂れこめた灰色の雲にかき消される。遠くで雷鳴が響いた。これから一雨来るのだろう。私はシャーロットの肩を抱いたまま、窓の外に目をやった。ぽつりぽつりと、雨粒が硝子を打つ。そして、目が覚めた。
 しかし次の晩、また日記を開いて眠った私は違和感を覚えた。
 いつもならすぐに会えるはずの、小さなシャーロットの姿が見えない。
「シャーロット」
 呼ばってみたものの、返事はなかった。何かが変わってしまったのだという、得体の知れない焦燥感が募る。
 私は一縷の望みをもって庭へ出た。すると、そこにシャーロットの姿があった。彼女はとりどりの花が咲き乱れる庭に座り、いつか一緒に編んだ花冠を作っていた。
「こんなところにいたのね、シャーロット」
 そう言いながら私は小さなシャーロットに歩み寄る。もうとても『小さな』と呼べる年頃ではなくなっている彼女だったが(後になって日記の日付を確認すると、この時彼女は十五だった)、艶やかな栗色の髪は相変わらず美しかった。
「花冠、すっかり覚えたのね」
 私はシャーロットを驚かせようと、彼女の頭越しに花冠を取り上げようとした。けれども私の右手は、虚しく宙をかいた。
勢い余って、私はシャーロットの隣に倒れこむ。しかしそれでも彼女が私に気づく様子はなかった。
「シャーロット、私よ、アリスよ」
 今しがた感じた焦燥感は、けして気のせいなどではなかった。小さなシャーロットの、この閉じられた甘やかで優しい世界が、私という常ならざる存在を拒んでいる。
「シャーロット、聞こえないの」
 もはや彼女の目に友の姿が映ることはなく、声が聞こえることもない。悲しむ義理なんてこれっぽちもないはずの私は、しかしいつの間にか涙をこぼしていた。その雫が、庭の花の上に、まるで朝露のように落ちる。

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