小説

『シャーロットの日記』朝蔭あゆ(『浦島太郎』)

 朧な月の光を受けて、初めて出会った水路の岸に、さながら月神ディアナのように。
「シャーロット」
 背を向けたままの彼女に、私は近づいた。姿が見えないこと、声が届かないこと、触れることさえ叶わないこと。そのどれもが、もう私には恐ろしくはなかった。
「あなたに、会いに来たわ」
 私は、彼女の隣に立った。背も伸びて、目線が同じになった彼女の方を向く。そして私は息を呑んだ。
 シャーロットの手は、彼女のお腹の上にあった。すっかり丸くなったそれを守るかのように、両腕は柔らかい弧を描いている。唇には、春の夜にふさわしい、穏やかな微笑みがあった。
「アリス」
 ふいにシャーロットがそう呟いた。私は驚いて顔を上げる。しかし相変わらずこちらに気付く気配はなく、その代わりに彼女は再び口を開いてこう言った。
「アリス、会いたいわ」
 それは姿を消した友へなのか、あるいはまだ見ぬ我が子への言葉なのか、とうとう私には知る術がなかった。
 彼女のその言葉は、おばあさまが柩に収められる段になってもなお、私の耳を優しく塞ぐように響いていた。隣に立つママの顔は、黒いベールに覆われて伺うことはできない。すすり泣くような様子も見せない代わりに、いつもはお喋りなママが一言も口をきいていないことだけは確かだった。
「ママ」
 私は言った。
「今まで言わなかったけれど、私、ママの名前、とても素敵だと思うわ」
 そして私は祭壇へ進み出る。ママの視線を背中に感じたけれど、振り返ることはしなかった。
「シャーロット」
 私は柩の傍らに立った。その中に眠る彼女は、永遠に美しかった。
 胸の上で組まれた彼女の手の下に、黒い革の手帳をそっと滑り込ませる。彼女の若い日と、彼女の友の姿を。
「ずっと、あなただけのものよ」
 私は、ひんやりとした彼女の額に口づけた。そして柩に背を向けて歩き始める。
 私たちの間に、これ以上何も重ねる必要はないのだ。私と彼女の間にあるのは、柩でも土でも聖句でもなく、ただあの透きとおった秋の夕暮れだけだった。
 仰ぎ見れば、夏の日差しに、空は高くどこまでも輝いている。
 その時私は、確かに聞いたのだ。
 あの栗色の髪が、鼻先をかすめて。

 アリス、会いたかったわ。

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