小説

『悪鬼』田向秋沙(『長谷雄草紙』)

 褥に着いて、半時ほど悶々と考えを巡らせた後、季雄は娘の眠る衝立の向こう側へと忍び行った。
娘は息もたてずに静かに眠っているようだった。季雄はそっと近づいて、恐るおそる娘の夜着の胸元に手を忍ばせて、左の乳房に触れた。
 するとどうしたことか、肌の感触を確かめる暇もなく、手が沈み、ひやりとした液体が手首のあたりまで覆うのである。慌てて娘の頭に顔を近くするも、そこには正体の知れない冷水の澱みが褥を濡らしているばかりのようだった。
 娘の身体は消えていた。
 季雄は火を熾し、蝋燭の灯りを頼りに仔細に検分を重ねた。娘は季雄の手が触れるや否や冷水となって消えたのだった。褥を湿らせた水はその冷たさにも拘わらず、蒸気して天井の向こうへと消失していくようだった。季雄は暫くの間、腰を抜かして、己の愚行の結末に慄いていた。百日とはこういうことだったのか。今更のように鬼の言葉が甦った。
 ほどなくして戸口の板を打つ音が響くと件の鬼が姿を現した。
「今しがた女人が水となって朱雀の門に帰り着いた。愚かなことよ。おおかた禁を破って女人に手出ししたものと見える。あの女人は良質な死人の骨を、上手い具合に組み合わせて作った紛いの人形。お主の目には絶世の美女と映ったことよ。すべてが人に生まれ変わるまでには百日を要した。禁を破るのがお主の恒常なのだから、いまさら何を言っても始まるまい。勝負に勝つならとことん勝たねば意味がなかろうに。まことに中途半端な振る舞いを演じたことよ」
 そう言って鬼は呵呵大笑すると、声だけを残して闇の中に姿を消した。
 季雄は朝日の射す気配を感じて、意識を取り戻した。囀る小鳥はいつもの日常を告げているようだった。夢うつつのままに夜半の出来事を思い浮かべるのだが、確とした得心のないままに参内の支度に取り掛かった。得難いものを得て瞬時に失うという無念の思いと後悔だけが、鉄錆のようにこびりついて離れなかった。
 肌の寒さを覚えつつ表に出てから、季雄は辺りの異変に気が付いた。其処いら中に鬼がいるのである。影のように食らいついて、人の傍らに鬼がいる。顔の色こそ違え、同じ様な相貌の作りの人と鬼が対となって、通りを過ぎるのである。心の内に潜む邪心が形を変えて鬼に育つのであろうか。
 赤子を抱いた歳若の母親にも鬼が一匹取り付いていた。赤子の鬼はまだいないようだった。それにだってゆくゆくは鬼に取りつかれることになるのだろう。

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