ああこれは、私の頭がどうかしてしまったのか。それとも反転した世界のせいなのか。ここは人間の住む宇宙でなくて、吉住だけの住む宇宙なのである。見るものすべてが吉住と取って代わって私の目に入り込み、頭の中で渦巻いて吉住がまた増殖する。療養生活は失敗だったのか。医師の声が反芻する。「食事で淡白なのはいけません。なんてね、ははは」ははは。ははは。ははは。笑う医師の白衣の胸元には、「吉住」と名前の入ったプレートが光を反射していた。
医師の笑い声とともに戦慄が体に巡り、闇の中をさまよい歩いた後のようにぱあっと目の前が明るくなった後、ようやく私の意識は戻った。あるいは意識を失って後、覚醒をした。こうしてなんとか平常心を取り戻した私の前には、ただ暗闇と、見慣れた温泉街だけがあった。増殖し続けた吉住はきれいさっぱり世界から取り去られ、私の脳に平穏が戻る。力の入らなくなった両足を、引きずるようにして歩き、私は宿に戻った。
詩人(ワタシ)の物語は此処で終わる。あれ以来、吉住町には一度も迷い込んでいない。吉住町で会った人々のことを思い出そうとすると、姿形や顔の造形はまったく浮かんでこず、ただ「吉住」の文字がのっぺらぼうの顔に記された人間の形をした何かが浮かんでくるだけである。まるでへのへのもへじの顔みたく、真っ白の顔面に「吉住」と書いてある。この世の何より恐ろしい、残像であった。それでいて今まで感じたどの恐怖よりも、現実味(レアリティ)があった。今では現実は彼処にあって、今いる場所は、吉住町で気を失った詩人が見ている夢に過ぎない、とすら思える。たとえばこの「吉住町」での出来事を、いつものようにただ詩人が風邪薬(ドラッグ)のせいでトリップ(幻覚)しただけと考えるのは容易だ。併し、本当にそうか。今ある自分の世界が、どうして錯覚の中でないと言えるのだろうか。実在の世界が吉住町の中だけにあり、現実と思い込んでいるこの場所が夢を見ているだけの可能性をまったく否定することは誰にもできない。宇宙はすべての人を包み、そのすべての人の中に宇宙は内包される。宇宙は各人の世界と同時に消失する。各人は各人の宇宙から抜け出すことも、侵入することもできない。では宇宙は何処にあるか。各人は何処に生きているのか。その問いへの答えはもちろん———「吉住町」の中である。
————と、以上で詩人ごっこは終わり。しばしのご清聴ありがとう。最後に似非詩人の書いた拙い詩でお別れを。