小説

『吉住町』ノリ・ケンゾウ(『猫町』)

 酒にくるくると廻る目、頭、に私の脳は覆い尽くされ、ぼんやりとした視界に映るのはずらりと棚に並んだ焼酎のボトルの数々。皆、「吉住」と書いてあった。「こりゃ吉住さん、とんだ大酒飲みだ」とくるくる廻る世界に向かって呟くと、女将の声が「何を。馬鹿言っちゃ駄目だね。病人はお前さんだけだよ」と言う。その返答に納得が行かず、「病人は焼酎を飲まないでしょうが、私は詩人ですよ」私の急な語気の変化に驚いたのか、吉住屋の客たちの視線が一斉にこっちへ集まる。「あの、女将さん、皆私を見ているようだけど」「そりゃ当たり前だろう。他所ものは物珍しく見えるもんだ」
 女将の言葉を合図にしたのか、周りの客たちが焼酎のボトルを片手にふらふらと近寄ってくるのだった。目は血走っているが、酔っているわけではなさそうだ。彼らが握る焼酎のボトルにはすべて「吉住」と書いてある。どうやらここの客は全員「吉住」であった。いや、吉住たちだけでない。店のあちこちに貼られたメニューも、「吉住おばさんの肉じゃが」、「吉住さん家の茄子を盗んで作った麻婆茄子」、「吉住家から逃げた嫁が置いていった十年物の梅酒」、「吉住さんが育てて殺した豚の豚肉野菜炒め」、等々すべて吉住に関連した料理であった。吉住たちはそれら吉住料理を頼み食べながら、私に近づいて「あんだ誰だ」「あんた病人か」「あんたどこから来たんだ」「あんたは何の依存症だ」「出身は」「性癖は」と、医師がカルテを書くわけでもあるまい、なのに私を質問攻めにする。嫌な声だ。吉住の声は嫌な声だった。ねっとりとして、風呂で流してもまだ体にこびりついて取れない垢みたく、嫌な声だった。吉住たちの目は、見た事がないくらいに人間味の削がれた異様な目で、直視できず下を向いた。人と目を合わせて話さないのは元から私の癖であったが、こんなにも下を向くほどではなかった。気味が悪いのだ。吉住たちが。真下を向き床の方を眺めていると、その床からぽこぽこと黒くて丸い半円の物体が湧くように突出してきて、間もなくそれが人の頭だと気づいた瞬間、上から糸で引っ張られたかのように吉住たちはするすると出現し、たちまち増殖、あっという間に吉住屋を埋め尽くしていく。増殖した大量の吉住たちは私を取り囲み、これが本物の病人か、これが本物の病人か、と好奇心の混じった声で囃し立てるので、「私は詩人だ」と私は叫び弁解するが、叫べども叫べども吉住たちは静まらず、「本当に詩人だってんなら、酒なんか飲まずに詩をうたえばいいだろう」と真っ当な意見でもって私を口撃し、腕や体を掴んで離さない。こんな状況では詩がうたえるはずもなく、吉住たちから逃れようと私は体をくねらせ引き剥がし、吉住屋を逃げるように飛び出す、と外一面の眩い程に明るい街が目に入り、そこを往来する人々は、やはり吉住ばかりで、吉住の大集団が街をうようよと歩いているのであった。吉住、吉住、吉住、吉住、吉住、吉住、吉住。どこを見ても吉住ばかりだ。缶コーヒー片手に煙草を吸う吉住。自動販売機の下の小銭を拾おうと地面に這いつくばる吉住。自転車を立って漕ぐ吉住。吉住と電話をしているらしき吉住。スーツを着て吉住と肩を組む吉住。目をとろんとさせて吉住と手を繋ぐ吉住。吉住と吉住の性行為によって誕生し、吉住の腹から生まれ、吉住として生きる吉住とその幼馴染みの吉住。

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