小説

『面影』野本健二(『鶴の恩返し』)

 二人の間に沈黙が流れた。それぞれに過ぎ去った時間のことを想いながら、それについては口にしなかった。
 女はふと目を横に流すと、窓に自分の姿が映った。30歳を過ぎて3年。頬や目尻には皺や沁みが見える。タイトなセーターは、小さなおわんのような膨らみを露わにしているがそこにかつてあったはずの瑞々しさがない。若さは日々、遠ざかる。垂れない胸はない。髪は硬く細くなるが、スカートの下に隠れた太ももの裏の毛だけは憎たらしいほどしなやかで逞しい。
 バチン
 男が手を速く、強く叩いた。
「虫だ。この時期には珍しいな」
「手、洗ってね」と、彼女は手を開いて眉間にシワを寄せた男に言った。
「玲子」と彼はキッチンのシンクを使って虫の黒みがかった茶色い体液を落としながらぶっきらぼうに言った。「今日も綺麗だ。君は紺色が良く似合うね」
 彼女は嬉しかったが、返事をしなかった。石鹸の匂いが彼女の鼻を甘く刺激した。
「真一郎、今日だろ?」彼女が驚いて振り向くと、「秋刀魚、3尾だった」とにやりと笑った。
「ああ、そうね」
「いよいよだな」
「何がですか?」と女は魚を焼く準備をしながら聞いた。
「ずっと、会ってもらいたいと思っていた」
「あら、そうですか」と女は男の後ろを通り、グリルを強火で予熱させ始めた。「あと少しで来るはずですよ」
「ふふっ、ふふふっ」と男は笑いが押さえきれなかった。勢い余って、「秋刀魚の塩焼きぃ~」と調子外れの歌まで口にした。女もそれには笑うしかなかった。男は満足そうに女の笑顔を見て、ジャケットのポケットからアイス・グレーのハンカチを取り出して手を拭いた。
 女は予熱を終えて、グリルの網に薄く油を塗った後、尻尾を手前にして3尾、秋刀魚を置いた。しばらくすると、魚の脂の匂いが部屋を覆った。彼女は思わず深呼吸した。男を見ると、シンクに背を預けたまま深呼吸をしていた。二人は互いを見合って吹き出した。男はすっくと起き上がり、女の隣に並んで、真っ赤に色づく小窓の中を覗きこんだ。男の顔も熱で次第に赤らんでくるように見えた。女は、窮屈そうな男の格好を見て、彼の背の高さを改めて感じた。

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