小説

『面影』野本健二(『鶴の恩返し』)

 突然、男が彼女の手首を掴んだ。男の鼻孔は膨らんでいた。男は屈んだまま、視線を焼き魚から逸らさなかった。驚いた彼女が手を引いたところ、手が離れた。しかし男はそれでも、微動だにしなかった。
「玲子」と男が言った。
「何ですか?」と彼女は手首に残る強い握力に、顔をしかめながら聞いた。
「まだ強火でいいのか?」
「そうね」
 彼女は火を弱めるために手を伸ばした。男の手は動かなかった。火を弱め、体を起こした彼女に男は切り出した。
「俺がお前を本当に愛しているのかどうか、疑っているのか?」
「そんなの」彼女の頭の中にも心の中にも答えは無かった。「疑ってなんかないし、疑いたくない」
「だったら」と彼は彼女の肩に両手を置き、正対させた。いつにない真剣さが目にも表情にも声にも、荒くなった鼻息にも込められていた。
「やめて」と彼女は声を振り絞った。
「どうして嫌がるんだ? いつも許してくれないのはなぜだ? 別に男がいるのか?」
「違うわよ」
「女か!」
「違うわよ! やめてほしいの、やめてって!!」
 男が一気に抱きしめようとしたのを拒んで、彼女は叫んだ。
「もう15年も一緒じゃないか、どうして一度も許してくれないんだ?」
「知らないわよ、そんなの」と彼女は涙がこみ上げてくるのを感じた。「お願いだから、さわらないで、ねえ、ほんとに、やめてって」こんな顔を見せまいと手をばたつかせ、男から距離を取って彼女は男に背を向けた。
「玲子」
 男の熱い息が、彼女の首に当たった。彼女はそれに寒気を覚え、鳥肌が立った。そして気付けば、後ろから彼の両手が両脇の下から体の前に伸び、両胸を揉んだ。彼の生温かい息が再び漏れ、彼女の首筋と耳にかかった。彼の指は、服の上からではあるが、彼女の乳首に触れていた。

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