小説

『面影』野本健二(『鶴の恩返し』)

 彼女はハッとして顔を上げたが安心した。そこにいたのは、水色のシャツに明るいブラウンのカジュアルなジャケットとパンツを着た、前頭部だけが禿げあがった初老の男だった。
「何ですか?」
「夕食はできてないのか?」と言いながら、赤と青のストライプ柄のスリッパ姿で華麗な身のこなしで部屋に入って来る。
「まだですよ」
「それは?」と男は指を指した。
「マフラー、になりつつあるものです。外に行く時、要るでしょ?」
 男は興味なさそうに豊かなあごひげを右手で撫で、小さくため息をついて彼女の隣にどっかと座った。
「いつできるんだ?」
 その言葉に、女は男の顔をしっかりと見て微笑んで言った。
「寒くなる前にはできるかな」
「違う!」男は突然、声を荒げた。「食事だ!」
「ああ、ごめんなさい、そっちね。40分くらいかかるかな」
「全く」
 彼女は顔を伏せて編み物に集中した。糸と棒を使っている時は、他のことを考えなくてすむ。元々、編み物は得意ではなかった彼女だが、大学時代にコースターやエプロンを作った時、近所や職場の女性たちに評判だったのが嬉しくて、色々とチャレンジした。慣れてくると、小物や簡単な洋服を作ってはフリー・マーケットやインターネット・オークションに出品した。売り上げが、ささやかな金額でも、あるいはたった一つでも、心からの充実感を得ることが出来た。
 男は不意に立ち上がって歩きながら重々しく言った。
「10年の記念日だな」
「え?」と彼女は思わず声を漏らして彼を見た。
「なんだ、忘れてたのか」彼は冷蔵庫の前で立ち止まった。「よかった。プレゼントが何もなかったんだ。本当は指輪か何かを渡すべきなんだけど」

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