小説

『満員電車』遠藤大輔(『蜘蛛の糸』)

 それよりも問題なのは左前の汗だくメガネだ。彼の背中が僕の左脇に密着して、僕のせいではないのにラッキーアイテムの青いYシャツがにじんでいくのが分かる。湿気をまとった熱温を押し付けられているのだ。
 相変わらず鼻すすりジジイと、スマホ学生の肘打ちも喰らっている。なにが幸運な一日だ。これじゃまるで地獄だ。

「次は中野、中野。お出口は左側です」

 やはり占い通りの幸運はあった。乗り込んだ電車は中野で特急電車の通過待ちをする電車だったのだ。おかげで次は左側のドアが開く。僕のいる右のドアから乗りこんでくる人はいないし、中野で東西線に乗り換える人もいるから、幾分か空くはずだ。

「中野、中野」

 背中を向けていたのではっきりとは分からなかったが、中野駅のホームもかなりの人が溢れかえっていた。停車してドアが開くと、僕の左前にいた汗だくメガネが僕を押し始めた。

「すみません。降ります」

 高円寺で乗って中野で降りるなら、中央線じゃなくて並走している総武線に乗ればいいのに。総武線の方が若干空いているのに。いや、むしろたった1駅なんだから歩けばいいのに。徒歩20分もかからない。
 汗だくメガネは僕の左脇だけでなく、胸と脇の下もにじませていった。そればかりか汗だくメガネに押し出される形になり、僕はよく分からない波に流された。降りようとする人、一旦ホームに降りようとする人、降りたら最後と押されても道をあけずに乗り込んだままの人、新たに乗り込もうとする人。このよく分からない波に僕は呑まれまくった。もはや自分で何とかできるようなレベルではなかった。抗うよりも、流されることでどうにか押しつぶされないようにするのが精一杯だった。もう来るな、これ以上誰も乗りこむことなんかできやしない。

1 2 3 4