小説

『満員電車』遠藤大輔(『蜘蛛の糸』)

「この電車は時間調整のため3分ほど中野駅に停車致します」

 この3分間の記憶はない。どうやって空気を取り込むか必死だった。あとは人身事故を起こした奴のことを考えていたに違いない。どうして月曜の朝にこんなに人様に迷惑がかかるのに飛び込みなんかしたんだと。
 ようやく電車が動き出した。気づくと僕の右前にはさっきまで後ろにいた鼻すすりジジイがいた。相変わらず鼻をすすっていて、いい加減鼻をかめよと思ったが、よく見るとけっこうなジジイだった。70歳じゃすまないかもしれない。右手には杖を持っていたが、それを床に突き刺す場所なんてなく、そもそもこれだけ人に圧迫されていたら支えなんて必要ではなかった。
 左前にはいつ乗ってきたのか、前から乗っていたのか母娘の姿があった。母親といってもまだ20代半ばぐらいの若さで、娘は5歳ぐらいで金色の髪をしていた。母親が日本人の顔をしていたのでおそらく父親は外国人なのだろうが、近くに姿は見当たらなかった。痴漢や変態に間違われたら大変だと、僕は鞄を持った左腕がこの母娘に触れたりしないように、慎重かつ必死にポジションを確保した。
 電車の中は本当に混沌としていた。汗や香水や昨夜の焼肉屋で染みついたような様々な臭いが入り交り、爆音でスマホのアラームが鳴ったり、イヤホンからアニメソングが聞こえ漏れたり様々な不快音が入り乱れていた。
 この電車を降りたら僕はまず最初に何をしたいかを考えるようになっていた。そうだ、深呼吸をしよう。

「新宿、新宿です。お出口は右側です」

 今度は中野で左側から乗ってきた人達が、どっと右側のドアに押し寄せる。ちょうど真ん中ぐらいにいた僕はまた波に呑まれるしかなかった。新宿では降りた人以上に、乗り込んできた人が多かった。あと15分の辛抱だ。15分我慢すれば僕は解放されるのだ。もう何かを感じ、考えるのはやめにしよう。

「後続の電車が遅れておりますので、現在停車中の電車をご利用ください」

 自分の中で糸が切れるのが分かった。ホームで次の電車を待っていた人達が、アナウンスを聞いてさらに無理矢理乗りこんでこようとしている。もう無理だ。この電車はもう誰も乗ることができないんだ。今乗っている僕たちが東京駅に向かうことが最優先なんだ。後から来た奴が乗りこめないのは当然だ。最初の人が優先されるのは当然だ。

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