小説

『人形の夢』あおきゆか(『たれぞ知る』ギ・ド・モーパッサン)

 やがて彼女たちは家から出て街の方角へと歩きだしていった。その後ろ姿はすでに大人の女そのものだ。
あわてて追いかけていくと、Sはしんがりを歩いていた女のスカートのすそをつかんだ。すると女が振り返りSを見おろした。その顔には、人生のなんたるかを知りつくしたような表情が浮かんでいた。女はスカートをつかんでいたSの指をゆっくりとほどくと、口の端をほんのすこしゆがめるような笑い方をして、また歩きだした。
 それ以上はもう、人形たちを追うことができなかった。

 家に戻ったSは、そのまま玄関先にばったり倒れ込むようにして眠ってしまった。
 目が覚めてみると家の中はひどい有様で、テーブルの上のものが落ち、燭台は倒れ、クローゼットの中まで荒らされている。人形たちが、そこいらじゅうをひっかきまわしていったのだろう。
 人形の部屋に行ってみると、案の定そこは空っぽで、髪をすくのに使っていたブラシが無造作に転がっている。しかも彼女たちは絵の中からも抜け出していたのである。アトリエにあるすべての絵、スケッチブックにもなにもない、壁に掛けられた人形の絵からは走る少女の姿が消えて、あとには青空と木と風に揺れる草むらだけが残されていた。

 家政婦はこの惨状を前にして目を丸くしたが、Sが何も説明しなかったので怪訝な顔をしながらももくもくと片づけを続けた。
 その日のうちにSは彼女に暇を出し、小さなスーツケースに数枚の洋服とパスポートを詰め込むと、飛行機に乗って異国に旅に出た。
 旅から戻ったら、絵の道具をすべて始末するつもりだったが、今はその気力も残っていない。モデルであった人形に去られたからというより、老成した大人の顔までそなえてしまった彼女たちのおぞましい姿を目にした自分には、二度と絵が描けないと思ったのだ。

 最初にパリで二週間過ごし、そのあとはヨーロッパを転々とした。どこも幼いころに両親と休暇を過ごした場所である。半年が過ぎ、Sはようやく日本に戻った。けれど家の前までくると、空っぽの部屋やキャンバスが思い出され、どうしても中に入る気にはなれなかった。
 Sはそのまま列車に乗って、窓から大きな川が流れるのを見ると駅名もろくに確かめず電車を降りた。小さなホテルに部屋をとり、これからどうしようかと考えた。とりあえず食事に行こうと、川沿いを歩いて行くと橋の向こうから若い人たちがにぎやかな声をあげながら歩いてくるのが見えた。

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