小説

『ピンクの100円ライター』山名美穂(『マッチ売りの少女』)

 また、手に持っていたタバコを吸いきってしまうと、コバヤシは何かに気付いたように顔を上げて、飲みかけの缶コーヒーを右手で持ち上げた。
「冷てぇ」
 彼は、持ち上げた以上仕方ない、という感じでそれを飲み干すと
「すっかりアイスコーヒーだよ」
と言ってまた右ポケットを探った。 新たにタバコを取り出し、口の端にくわえる。コバヤシは件のピンクの100円ライターで、それに火をつけようとする。だけれど、強めに吹いてきた北風にあおられて、火は上手くつかなかった。
 わたしはとっさに、手袋をはめた左手をライターの前にかざした。 コバヤシは眉間の皺をきゅっと増やして、顔を背ける。ライターを持った手で、わたしの手を押しのけた。そしてタバコをくわえたままもごもごと言う。
「手袋が燃える。危ない」
 そう言われて、わたしは左手の手袋の指先を前歯に軽く挟み、手を引き抜いてもう一度彼の顔の前にかざした。 わたしの左手は上手く風をさえぎって、ライターはささやかに揺れながらも小さな炎を灯した。それでもコバヤシは、しばらくの間、ライターにタバコを近づけようとしなかった。彼のタバコを待ち受けるその間、火は、わたしの左手薬指にはめられた、飾りのないプラチナの指輪を浮かび上がらせていた。

 再びきつい北風が吹いて、火は消えてしまった。その拍子に、コバヤシは気を取り戻したような表情になる。そして視線をピンクのライターに戻して、何度か着火を試みた。でもそれはこすれるような小さな音を立てるばかりで、もう一度灯りを取り戻すことはなかった。わたしは左手を引っ込めて、くわえていた片方の手袋を握りしめた。同時に、ポケットの中で握られていた右手は、いとも簡単にほどかれた。
「ガスが切れた」
 少し苛立ったような捨て鉢な声で、コバヤシは言った。
「終わりだね」
 彼は左手を、わたしは右手を、高いコートのポケットから抜き出した。コバヤシは傍らにあったゴミ箱に向かって、右手に残ったライターを投げようとした。わたしは慌ててそれを止めた。いぶかしげにわたしを見た彼に、理由を探す。

1 2 3 4 5 6 7 8