小説

『ピンクの100円ライター』山名美穂(『マッチ売りの少女』)

ツギクルバナー

 東急ストアを出ると、頭上から流れてくる琴の音楽に気がついた。ほんの少し前まで、これでもかというくらい精いっぱいクリスマスのイルミネーションでデコレートされていたはずの、駅から続くほんの数十メートルの小さな商店街。今は、梅の造花や「迎春」の文字が描かれた垂れ幕で飾られている。<フライングじゃない>。まだ歳は明けていない。わたしはついさっき、新年を迎えるために、割引値札のついた紅白かまぼこや伊達巻を購入したばかりなのだ。チェーンの飲食店や蕎麦屋からはいつもと変わらない光がこぼれ、個人が営むクリーニング店などは早々にシャッターを下ろしている。「春の海」。なんだかひどくわざとらしいその音楽としらじらしい町の装飾に、わたしはうんざりした気分になる。そうなりながら、昔母や祖母と手をつないで歩いた、年の瀬の田舎の商店街の喧騒を懐かしく思い出してしまう。わたしは上を向いた。街灯の向こうの空は、まだ午後六時前だというのに真っ暗だ。日が落ちてから一層冷え込んだ空気が、顔の皮膚感覚を奪っていく。わたしはコートの襟元についたフェイクファーの側で、ショルダーバッグの持ち手を握っていた、手袋に包まれている右手で自分の頬を触った。左手ではぶら下がったスーパーのビニール袋が、白菜の重みで大きく前後に揺れている。
「暗くなる前に帰ってきなさいよ」
 母の口癖が頭によみがえり、わたしは足を速めた。
 家で、あの人はわたしを待っているだろうか。わたしは、考え直す。わたしが夕食を作るのを、待っているだろうか。それとも、誰かと出かけて帰っていないだろうか。いずれにせよ、わたしはあの家に帰って、夜ごはんの準備と、明朝食卓に並べる、おせち料理の下ごしらえをしなければいけない。料理をすること自体は苦痛ではない。高校を卒業して上京してから、続けてきた作業だから。だけど、それをふたり分用意することに、そしてそこに誰かの意志や伝統や指示が入ることには、まだ慣れていない。わたしは溜息をついた。手を抜いてはいけない。明日は、ふたりが一緒に休みを取れる、貴重な一日なのだ。ああ、大晦日にまで仕事なんて。

 わたしは商店街の角を折れて、細い道に入った。街灯の数はぐっと減り、コインパーキングとその前に置かれた飲み物の自販機の灯りだけが、心もとない感じで道の向こうをぼんやりと浮かび上がらせていた。
「クリタ!」
 パーキングを通り過ぎてすぐ、誰かがそう言った。わたしの足は自然に止まったけれど、何故止まったのか理由を思い出すのに、少しの時間を要した。

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