小説

『F・A・C・E』澤ノブワレ(『むじな』)

 俺は男の腹を凝視しながら、返事のない婆さんにもう一度声を掛ける。やはり返事は無い。おかしい。まさかコップ酒一杯で酔いが回ったのだろうか。先ほどから妙な感覚に取り巻かれていた。男の腹が、どうもウネウネと歪んで見える。婆さんから返事がないことよりも、そちらが気になって仕方がない。
「ママ、おかわり。」
 機械のように繰り返す。実はもはや酒などどうでも良いのだが、そうでも言っていないと拙い気がしている。うねうねと動く腹は次第に見たことのある様相を呈してきている。それはぐにょりと弧を描くように湾曲し、まるで笑っているかのように……
「あんまり飲まない方がいいんじゃないかい。」
 もうほとんど出かけていた叫び声は、婆さんの声に押し戻された。はっとして見ると、婆さんはまだ鍋の方に向かい、何やらかき混ぜている。
「顔が青ざめてるよ。飲んで忘れたいほど怖いことでもあったのかい。」
「うるさい。とにかく……早く、おかわりを。」
 今度は婆さんの背中に目が釘づけられる。婆さんは多分振り向かない。何故かそんな気がする。振り向かないと思う。振り向かないんじゃないかな。いや、寧ろ振り向くな。俺に顔を見せるな。そうだ、俺はその顔を見たくない。俺が、見たく、無い、んだから、この婆さんは、きっとこちらには向かない。
「図星なんだろう。そんな歳にもなって、何がそんなに怖いんだろうねぇ。」
 老婆の声が、少し喜色を帯びていた。そのぬるりとした感触に、思わず俺は婆さんから視線を逸らす。図星?違う。恐怖を忘れたいわけではない。俺はただ、あの忌々しい変質者をブチ殺せなかった鬱憤を……。そもそも俺は恐怖なんか……
「例えば、こんな顔した人間に出会った、とか。」
 婆さんの声が、こちらを向いた。俺は不覚にも、それに釣られて視線を戻してしまった。婆さんの顔は、皺だらけだった。皺と、皺と、皺と……皺だけ。
「畜生!」
 俺は小さく叫ぶと、席を立ち、ドアへと向かう。だがそこには、いつの間に目を覚ましたのか、作業着の男が立ちはだかっていた。男の顔については言うまでもない。奴はただただくぐもった声で笑っていた。そしてその笑い声が高くなるにつれ、作業着からはみ出した腹がぐねぐねとあらぬ方向に波打ち、両端が持ち上がって、段々腹が弧を描く。くぐもった笑い声は、笑っているようなその腹の隙間から聞こえているのだった。俺は気絶しそうになりながらも、何とかスタンガンを取り出す。スイッチを押し、スパークするその端子を躊躇い無く男の腹へとぶち込む。男は一瞬ビクリと跳ね上がり、低いうなり声を腹から上げて、その場に倒れ込んだ。俺はそのままの勢いでドアを蹴飛ばし、駆けだしていった。後ろから何やら老婆の叫び声が聞こえたが、振り返るはずもなかった。

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