無我夢中で走りに走って、俺はようやく足を止めた。何といってもイイ歳をしたオッサンだ。さほどの距離でもないのに、なかなか息が整わない。しばらく前のめりになって殆ど嘔吐のような呼吸をしていたが、ようやく呼吸と鼓動とが落ち着いてくると、俺は必死になって頭の中を整理した。
――そうだ、きっと見間違いだ。あの男が街灯を背負っていたから、ハレーションを起こしたのかもしれない。いや、そうに違いない。あの忌々しいフラッシュバックのせいで、俺は人の顔が見えないことに対して必要以上に恐怖を抱いているのだ。
気持ちが落ち着くと、今度は腹が立ってくる。俺はあのムカつくフラッシュバックの発作で、十分すぎるほど償っているではないか。それなのに、変質者のくだらないイタズラのせいで、この平穏な時間にまで責め苦を味わうことになったのだ。厭な熱さが、食道炎のようにヒリヒリとこみ上げる。俺は懐からスタンガンを取り出すと、ぐっとそれを握りしめて踵を返した。
田舎町のスナックというのは不思議なもので、客がいなくても何故か経営はできている。スナックといっても、化粧の濃い年増女が愛想を振りまいてくるわけではなく、割烹着をきた婆さんが、特に手を掛けた訳でもないありふれたツマミとありふれた酒を提供してくれるだけの、小さな店である。傾けたグラス越しに、珍しく何やら鍋をかき混ぜている婆さんの背中と、俺から離れた席で突っ伏している作業着の中年男、そして俺。妙な静寂が心地よいが、それ以上に、こんな客足でどんなやりくりをしているのかと、少し不安になってくる。まあ、そんなことは俺に何の関係もないのだが。
結局その夜、俺がスタンガンを使うことは無かった。街灯の下に男の姿はなかったし、そもそも俺はそこに着くまでの道中で、ほとんど冷めてしまっていた。なにやら腑抜けた気になって、その宙ぶらりん加減がまた気に障って、さあどうしようかと考えた末に、酒の力の前に平伏してしまおうという結論に至った。非常にありふれていて、軽薄で、軽率な判断である。そう、本当に軽率な判断だった。
気が付くと、グラス――というのは気取った言い方で、実際は安っぽいコップ酒だ――が乾いてしまっていた。ぶら下がったままの気色悪さをグチャグチャにしてしまうには、まだまだアルコールが足りない。
「ママ、おかわり。」
そう言って、俺は婆さんの方ではなく、何故か作業着の男を見る。俺より一回りくらいは歳を取っているだろう。デップリと出た腹がカウンターにつっかえていて、見ているだけで苦しそうだ。
「ママ、おかわり。」