女が冷蔵庫の方に顎をしゃくった。テーブルの上には、「ウィステリア・キャッスル」と書かれたコースターが積んである。
藤の城。女の名前、藤城真理子からつけた店名だ。正確には女の名前ではない。再婚相手、藤城誠の名を、真理子は自分の店につけたのだ。藤城がまともに働きもしない、最低の男だということは、真理子もよく知っている。今頃は、良くてパチンコ、悪ければ、どこかの女の部屋に転がり込んでいる可能性だってある。それでも、自分には夫がいる。そう思えることで、真理子は救われてきた。夫の名前をつけた店で働いていると、たとえそれが安っぽいバーでも、まるで男が自分に持たせてくれた店で働いているような気分になれた。
修一は、業務用の冷蔵庫にビールを入れながら、ミネラルウォーターのボトルを一気に飲み干した。
「なあ、沙希は店に出ているのか?」
修一は作業を続けながら、ついでのように聞いたつもりだったが、真理子の顔に、からかうような意地の悪い笑みが浮かんだ。
「沙希? さあ、どうかしらねえ。あの子は私に似て気まぐれだからねえ」
思わせぶりな真理子の言い方に、修一の顔つきが険しくなる。
──あの左頬の傷がなければねえ。
真理子は、目をぎらつかせて自分をにらみつける修一の顔を見て、少し憐れになる。修一はハンサムな男だ。すっと通った鼻筋と形の良い唇。切れ長で大きな瞳に見つめられると、つきあいの長い真理子でさえ、いまだにどきっとする。けれどそれは、開店前の薄暗い安酒場の中でだけのことだ。修一の左頬から喉にかけてべったり張り付いたような傷痕が、彼の人生を暗がりの中に封じ込めていた。
なんでも、修一が幼い時にできた火傷の痕だという。父親が女を作って出て行った後、修一と弟を一人で育てることに疲れた母親が、灯油をかぶって焼身自殺をした。その時にできた火傷だと、真理子は聞いたことがあった。
「あんたさあ、いい加減、あの子のことはあきらめた方がいいんじゃないの? あれはおとなしく身を固めるタイプじゃないよ。あんただったら、もっといい女を見つけられるよ」
真理子はそう言いながら、セーラム・ライトに火を点けた。その言葉に、修一は敏感に同情の匂いを嗅ぎつけ、声をとがらせた。
「どういう意味だよ」