小説

『檸檬爆弾』荻野奈々(『檸檬』梶井基次郎)

 はっとして前に向き直ると、見慣れたグレーの車体が到着していた。自分のうしろに並んでいたはずの人たちも、いつの間にか車内に入っている。出発してしまう、ほぼ無意識に足を踏み出して、また振り返って男の姿を確認しようとすると、ホームには人ひとりいなかった。彼女の右手にはしっかりと、重みのあるビニール袋が握られていた。

 
 補習に必要な教科書や辞書やテキストがぎゅうぎゅうに詰められた深緑のかたまりは、プールサイドのコンクリートの上で鈍く音を立てた。それから彼女は注意深く、ビニール袋をベンチのはしっこに引っ掛けた。特に誰にも見られないはずなのに、夏だから、とビタミンカラーで色どったつま先が、彼女が甲をかすかに上下させるたびにきらめいた。補習が終わった後、ほかの生徒ははじけとぶようにちりぢりになって、家に帰ったか、自転車置き場でしゃべっているか、ファストフード店で問題集の白いますを埋めているか、塾へ向かったか、それとも彼、彼女たちおのおのの夏の秘密基地へ。いつもグラウンドで声を響かせている野球部とサッカー部が今日はいない。合宿だそうだ。「あいつらがいないから集中できるなあ」と数日前からしきりに口にしていた数学教師の声を、彼女は覚えていた。
 生きているものが視界のうちに映らない夕暮れは、世界からぴんとつまはじきにされたようで、日中は青に近かった影は黒くにごり、足元から長く伸びていた。グラウンドの砂は平静をたもって大人しく、生徒らの声帯のふるえに共鳴し終わった校舎の窓ガラスは静止している。
 彼女は檸檬をビニール袋からひとつ取り出した。それは新品のレモンイエローの絵の具をチューブから搾り出して、まあるく固めたような単純な色をしていて、人工物より人工物であるように見えた。しかし、手の中でそれを回してみても、スイッチや電池カバーなどは見当たらないようだった。爪を立てると爪と指の間に檸檬の皮がくいこむ感触がして、かすかな果汁が指先ににじんだ。これが機械であるならば、なんて精巧な機械なのだろう、と彼女は思った。
 彼女は「1」と書かれた飛び込み台に登り、檸檬を持った右手を水面にかかげた。コンクリートから熱を運ぶ風が、彼女の夏用スカートから、彼女のひざこぞうを覗かせた。水面に映るレモンイエローはゆらめいて輪郭を無くし、まるで月のように見えた。彼女は檸檬を持った指先の力を抜いた。檸檬は吸い込まれるように落ちてゆき、ほとんど音もしぶきも立てずに、水の中に入っていった。ノースプラッシュ。飛び込み競技なら高得点がとれるぜ、と思いながら、彼女はプールを覗き込んだ。

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