小説

『檸檬爆弾』荻野奈々(『檸檬』梶井基次郎)

 カ、チリ。今回もまた、ナイショ話をされているかのように近くで、その音を聞いた。彼女は思わず耳を強く塞いで、建物に背を向けてしゃがみこんだ。すぐに、体を内側から揺らすような爆発音がした。大きな大きな大きな花火のようだった。何か固いものが破壊され、はじけ飛ぶ音がした。彼女は耳を押さえる力を強め、目をつぶった。大きなカタマリが崩れて地面に叩きつけられていた。その音が完全に止んでから、彼女はゆっくりとまぶたを上げた。綺麗に燃えさかっている、真っ赤な夕焼けが広がっていた。

 
 なんなのあんた、どこかにいくの?濡れた髪のまま廊下を歩く彼女を見て、彼女の母が声をかけた。別に、と一言だけ口にして、彼女はひらひらしたモンシロチョウのように階段を駆け上っていった。だいぶ薄くなって着心地のよい学校の体操服を着て寝るのが常であったが、今日の彼女は真っ白なワンピース姿だった。すとんとした直線的なデザインで、ゆるくアーチを描いた胸元に繊細なレースがついていた。彼女はやわらかな綿が好きで、大きく動いたときに空気をふくんでひざにまとわりつく丈が好きだった。
 彼女は自分の部屋のドアを閉めると学習机について、しばらく、ある一冊のノートの余白を見つめていた。彼女のワンピースよりも少しくすんで、固そうな影をはらんだ白だった。彼女はシャーペンを指と指の間でまわしたり、顎でカチカチと芯を出してみたり、ほうづえをついて机に貼ってある雑誌の切抜きや写真を眺めたりして、ようやくノートの一行目にひとこと書いた。開け放した窓からは、雨のあとの冷たく澄んだ空気が入り込んでいた。いくえにもなった蛙の声が聞こえる。
 彼女は制服がかけてあるラックからビニール袋を丁寧に外した。そしてたった一つの檸檬を取り出した。檸檬がいろいろな感情、戸惑いや恐怖を、彼女に与えるということはもう無かった。内側から光を放っているような強い黄色が、彼女の心に驚くほどにしっくりときていた。 
 彼女は檸檬を手に持ったまま、ベッドにあおむけに倒れこんだ。パイル地のベッドカバーが濡れた髪で湿ってゆくことを、彼女は少しだけ不快に思った。彼女は檸檬を鼻の前にもってきて、思いきり空気を吸い込んでみた。鼻の奥の細胞がきゅっとやさしく縮こまるようだった。日本の夏とは全く違うそれが、コマーシャルや英語の教科書とも違う確かな実感として、どこかには存在している。そのことをまだ彼女はまだ上手くイメージできない。彼女は自分の上に檸檬をそっと置いた。ふくらみが邪魔で安定する場所を探していると、ちょうど胸の真ん中におちついた。檸檬が転げ落ちないように気をつけながら、彼女は大きく息を吸い込んだ。窓の外から舞い込んで来る風のにおいに、もう夏も過ぎ去っていくのだと彼女は気づいた。春も秋も冬も、次の季節へのさわやかなバトンタッチであるのに、夏だけが「終わる」のだ。彼女のおなかがゆっくりと膨らんでいき、同じ早さで沈んでいった。それを三回ほど繰り返。カチリ。

1 2 3 4 5