小説

『夜と駆ける』木江恭(『スーホの白い馬』)

 気が付けば、スーホも馬の脇腹を思い切り蹴っていた。手綱を強く握りしめ、震えを押し殺す。牝馬と牡馬の違いなのか、それともこの青毛の馬の気性なのか、駆けだす勢いは一瞬背がのけぞるほどで、風が強く頬を打った。腿に触れる筋肉は滾る血で熱く緊張し、地を蹴る振動を直に伝えてくる。意に逆らって進もうとするのをスーホが制すると、馬は不満げに首を振って鼻を鳴らした。従順な理解者だったツァスとはまるで違う勝手に戸惑い、時には主導権を奪われ、振り落とされそうになるのを堪えて手綱を引き絞る。駆け引きの躍動感にスーホは夢中になった。
 どれくらいそうして駆けていたのか。まず少年王が音をあげて、草原に引っくり返った。やがてスーホもその隣に寝転がり、汗ばんだ背中を露の下りた草と地面に押し付けた。背中の荷を下ろした二頭の馬は、桶に残っていた水で代わる代わる喉を潤している。
「スーホ」
「何だ」
「楽しいな。馬に乗るのは楽しい。気持ちがいい」
 弾んだ声でさえずったかと思うと、少年王は跳ね起きた。そして首の後ろに手を回し、大きな石のついた首飾りを外してスーホの胸の上に置いた。
「どうしたんだ、急に」
「よいか、来年の競技会には余も出場する。傀儡のうつけなど二度と言わせぬ。だから、そなたも来い。これはその約束だ」
 スーホは驚いて起き上がった。ずり落ちそうになった首飾りを慌てて受け止める。少年王の目は、凛としてスーホを見つめていた。
「わかった。じゃあ、僕からは……こんなものしかないけど」
 スーホは空になった革袋を差し出した。王の首飾りと比べればまるで釣り合いが取れないそれを、少年王は嬉しそうに受け取った。
「それから、それまでツァスは貸しておいてやる。今年の優勝者からのハンデだ」
 少年王がはっと息を呑んだ。
「でも、スーホ」
「いいんだ。僕はそうするべきだと思う」
 スーホがきっぱり言い切ると、少年王は少し逡巡してから頷いた。そして、笑った。

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