小説

『夜と駆ける』木江恭(『スーホの白い馬』)

 あれほど消耗していたのが嘘のような優雅なステップ。月光を真っ直ぐに浴びた背中は透けるように白く、なだらかな腹からすらりと伸びた足にかけて青い影が差している。長い尾が時折、流れ星の残光のようにゆらりと触れる。草を踏み分ける蹄は重さを何処へ置き忘れたのか、ほとんど音を立てない。
 満天の星明りが降り注ぐ空を背にして、純白の馬が静かに草を食む。時が止まったかのようなその姿は、まるで。
「夢のようだ」
 今にも唇から零れそうだった言葉を呟いたのは、スーホではなかった。
「まるで、夢のようだ。今夜のことは、何もかも」
 少年王はスーホの視線に気づいて、はにかんだ笑みを見せた。
「あんなに早く駆けたのは初めてだった。家来は皆、まともに稽古もさせてくれぬから。風が轟轟吹き付けて、何にも見えないし聞こえなかった。ただ、体が凄く軽くて、何もかもが速くて、何処まででも飛んでいけそうな気がした」
 華やいだ声をふと途切れさせ、少年王は目を伏せた。
「――そなたが羨ましかったのだ。見事に馬を乗りこなし喝采を浴びるそなたが、余を見下しているように思えて惨めだった。だから」
「羨ましいことなんて、何も」
 気がつけば、スーホの胸からは苛立ちも拒絶も消えていた。
「僕は半人前なんだ。ツァス以外の馬には乗れないから」
 少年王が声もなく目を見張る。当然の反応にスーホは苦笑した。
 最初は、皆にもなかなか信じてもらえなかった。ツァスに乗る時はあんなに上手いじゃないか、それと同じだよ、怖くないさ――励ます笑顔は、結局いつも失望と諦念で曇り、やがて離れていく。
「うんと幼い時に、両親が落馬して死んだんだ。僕も一緒に落ちたけど、母親に抱えられていたから無事だったらしい。その時のことは全然覚えていないんだけど、馬に跨ると駄目なんだ。震えが止まらなくなる」
「あの馬は、どうして」
「僕はツァスの母馬の乳で育ったんだ。言わば乳母兄弟――そのせいかな、ツァスだけは怖くないんだ。だから、僕にはツァスしかいない。ツァスしか要らない」
 体を動かして気が済んだのか、ツァスが小走りで戻ってくる。スーホは立ち上がって愛馬を迎え、太い首をかき抱いた。

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