小説

『夜と駆ける』木江恭(『スーホの白い馬』)

 それは黒っぽいマントにすっぽりと包まった少年だった。血の気のない顔に頬だけが真っ赤に上気して、マントの合わせ目から覗く薄い胸は破れそうなくらいに忙しなく上下している。スーホが手足に触れても痛がる様子はないので、落馬した時に怪我をしたわけではなさそうだが、とにかく彼にも水が必要だ。スーホは駆け出した。
 スーホが水の満ちた桶と革袋と抱えて戻った時、少年は目を覚ましてツァスに寄りかかっていた。まずは少し呼吸の落ち着いたツァスの鼻筋を撫で、桶を口元に置いてやると、ツァスは嬉しげに嘶いた。
「おかえり、ツァス」
 そして少年にも革袋を渡そうと向き直って、スーホは絶句した。
 その顔には見覚えがあった。この七日間、毎夜見せつけられていたのだから当然だ。
青白い顔、底無しに暗い瞳。「余にくれぬか」あの残忍な声が耳元に蘇り、スーホは革袋をきつく握り締める。
 七日前は馬上から視線をよこした少年王が、ぼんやりとスーホを見上げていた。
「そなたは」
 ひび割れた唇で呟いて、少年王は突然咳き込んだ。咄嗟にスーホが革袋を押し付けると、少年王は貪るようにそれを飲む。スーホはその眼前で、木偶のように立ち尽くしていた。
程なくして袋が空になると、少年王は黙ってそれを差し出した。尊大な仕草にスーホは舌打ちしたくなったが、上等な服の胸元を小さな子どものようにびしょびしょに濡らしているのに気付いて、毒気が抜けた。
 結局スーホは、何も言わずに少年王の隣に腰を下ろし、ツァスのたてがみを梳いた。夜気は相変わらず足元から忍び寄ってきたが、ツァスに触れている背中の温もりがあればそれで十分だった。
 少年王は膝を抱えて丸くなり、ぼうっと遠くを眺めている。そうしていると、競技会の時よりもずっと幼く見えた。あの時は同じくらいの年だと思ったが、もしかするとスーホより二、三は年下かもしれなかった。
 沈黙に耐えられなくなったのはスーホの方だった。
「どうして、ここに?僕にツァスを返しに来てくれたのですか」
 多少突っ慳貪な言い方になってしまったが、少年王は気にするどころか、スーホに目をやることさえしなかった。ただちらりとツァスを見て、小さな声で答えた。
「知らぬ。余は何も……気がつけばここに連れてこられていた」

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