小説

『夜と駆ける』木江恭(『スーホの白い馬』)

「それに、そなたの馬も。実に美しい」
「あ、ありがとう、ございます」
「余にくれぬか」
 呆然とするスーホに、少年王はゆっくりと繰り返した。
「そなたの馬を、余にくれぬか」
 突然、後ろから力強い腕が何本も伸びてきて、スーホを羽交い絞めにした。声を上げようとすると口をふさがれ、喉を締め上げられる。右手を強引にこじ開けられ、手綱を奪われる。スーホの白い馬が連れていかれる。
 ツァス、ツァス、スーホは愛馬を呼ぶ。悲しげな眼でこちらを見る愛馬に向かって、必死で手を伸ばす。
 指の先にあったのは、見慣れたゲルの天蓋だった。
 耳の奥で心臓が激しく脈打っている。胸は石を飲み込んだように重苦しい。スーホは仰向けの姿勢で静かに息を吐き、濡れた目尻を拳で拭った。幸い声は立てていなかったようで、両隣からは規則正しい寝息、その向こうからは少々賑やかな鼾が聞こえている。
 入り口の幕をめくり外を伺うと、満月が空高く浮かんで辺りを照らしていた。スーホはそっと幕をくぐり出て、立ち並ぶ仲間たちのゲルの間を抜けると、開けた草原の方に足を向けた。
青い月光を浴びた地平はどこまでも広く、しんと冷え切って、風が吹くたびに青草がさらさらと鈴のような音を鳴らしている。何もかもが息を潜め、生き物のわずかな気配さえも感じられない風景の中、スーホは目を凝らし耳を澄ました。彼方に白銀の懐かしい影が現れはしないか、少しだけ蹄を引っ掛ける癖のあるあの足音が聞こえはしないかと、息を詰めて立ち尽くした。
 手足が寒さで痺れ始めた頃、不意に吹き付けた強い風に足を掬われて、スーホは尻餅を付いた。冷たい草が腰に張り付き、忘れていた寒気がぞくぞくと這い上がる。スーホはのろのろと膝を抱えた。
 競技会から戻ってもう七日も経つが、スーホは毎夜夢を見る。内容はいつも同じ、ツァスと引き離されたあの日の再現――そして恐怖と絶望で飛び起きる。最近では眠ること自体が恐ろしい。
数日前、寝不足で目を腫らしたスーホと二人きりになった際に、叔父がぽつりと言った。
「私も昔、大切な馬と引き離されたことがある」
 スーホは驚いた。幼い頃に両親を亡くしてからずっと叔父に面倒を見てもらってきたが、そんな話を聞いたのは初めてだった。

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